No.705

題名:「へねげでばぼん」の世界を知る
報告者:ナンカイン

 人の心の中に潜む闇には、時折その人の人格を超え、表出することもある。しかしながら、通常の社会生活においてはそれを表向きにしない。それが、人と人との間に契約された暗黙の人の社会の社会性である。
 闇が表出すると、人は社会によって裁かれることもしばしばある。近頃ニュースとなったアメリカのとあるYoutuberが、その闇を自身の利己で社会的な超えてはいけない一線として越えてしまい、それによって社会から制裁を受けたことは記憶に新しい1)。そこは育った国が異なろうとも、背景となる文化が異なろうとも、人の社会における一定の社会性が、人として心の中に基底されている証拠でもある。
 野生の科学研究所所長で人類学者の中沢新一博士2)によれば、社会の形態が変化しようとも、人類としての我々の心の本質は不変であり、それは人類が人として「心の流動性」を超越させるべく、例えば、ラスコーの洞窟という特殊な環境下で備えた内なる面の目覚めとして位置付けている。そこでは人としての普遍的な心の基底が養われ、それが発達することで、人は特殊な社会性を心に着飾った。芸術的、あるいは、宗教的な観念は、その心の基底にもなり、科学が発展しようとも、今もってその重要性は消えることはない。
 このようにして見ると、人の心の基底には、外部世界に基づくものと、それと区別するべく内部世界に基づくものの2種が存在する。先の洞窟の例で言えば、洞窟自体は外部にあり、そこの描かれている壁画も外部にある。しかしながら、これを真っ暗な中で何かを心(脳)の中で見出すのは、芸術的、あるいは、宗教的な観念であり、内部である。このような2分する世界において、中沢新一博士2)曰く、「人類以外の生物は妄想をいだかない。」と論じているが、まさにその通りで、人の内部世界は、妄想に他ならない。当時の人々の間でも壁画の解釈も個々で大いに異なったであろう。そのため、社会性があろうとも、他人との軋轢が解消されないのは、個々の妄想(解釈)を垣間見ることができないからでもある。しかしながら、「心の流動性」は、外部世界から受ける影響を、よいとも、わるいとも自身で判断でき、心の妄想でもって如何様にもチェンジさせることができる。ただし、そのチェンジの仕方を誤ると、先の例のように社会的な制裁が個にもたらされる。
 古からの教えで、仏教には、梵我一如の思想がある。中世インドの思想家であるआदि शङ्कर(シャンカラ)の教えであるが、文献4), 5)によれば、梵は、宇宙を支配する原理で、我は、私という一個人の中にある個体の原理であり、それが一如、一でありながら異なるが、異なるといっても本質的に一であるという真理に基づいている。すなわち、仏教においては、外部世界と内部世界は同一であることを意味し、それを生かすも殺すも、その人の心の基底を内部世界と外部世界との両対面から見つめ続ける必要性を説いているのかもしれない。
 ここで、表題の「へねげでばぼん」の世界について説きたい。これは、筆者の内部世界からのメッセージであるが、何を意味しているのかは不明である。Googleの検索でも出てこない。しかしながら、この報告書を境にして、「へねげでばぼん」の世界も、やがて内部から外部へと拡散するかもしれない。今はその判断がつかないが、ラスコーの壁画も後世で解釈されるとは、当時の人々は誰も予想はしていなかったであろう。ゆえに、「へねげでばぼん」の世界は、ラスコーの壁画の如く、未来へのメッセージでもある。

1) https://gigazine.net/news/20180111-logan-paul/ (閲覧2018.1.12)
2) https://www.1101.com/nakazawa/2005-10-31.html (閲覧2018.1.12)
3) http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bonga.htm (閲覧2018.1.12)
4) https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%A6%82-31332 (閲覧2018.1.12)

 
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