No.564

題名:ガミガミといいたくなる根拠の所在を探って
報告者:ダレナン

 いつも人は他人に対して、ガミガミと文句をいう。相手の行動パターンに対しては、よく見えているからである。しかしながら、ガミガミという側の自分の行動パターンは、その人自身がよく見えていないことも多い。ともすれば、ガミガミといった側に対する同じような行動パターンが、ガミガミといわれる側だけでなく、いった側も生じていることが少なくはない。その理由は、ガミガミという側の根底にも、そのいわれる行動パターンに対する無意識的な良心の呵責が、明らかに潜んでいる可能性をも示している。だからといって、ガミガミということそのものが悪いわけではない。経験値の多い側が、経験値の少ない側に対して、教え的にガミガミといいたくなるのは、今の時代だけではないはずである。歴史をたどれば、そのガミガミがよいか、わるいかは別として、行動パターンを是正するべく、いいたくなることはやぶさかでない。だだし、一番の問題は、そのガミガミの根拠がどこにあるかである。歴史的に、後の社会において、そのガミガミが正しいとは、誰も証明していない。未来の問題として捉えると、その根拠自体が実にあやぶい。歴史的な、社会的な通説として、それは正しい、と思っているだけのガミガミかもしれない、という脆弱さも未来には秘められている。
 人は大人になると、ある経験から、それが判断材料となり、ガミガミという根拠が生まれる。「それはだめです。あれはだめです。やめなさい。」などの言葉には、その判断材料が含まれている。しかしながら、よく考えると、その判断となる材料の根拠の所存は、その人の経験からだけの主観的な知恵も多く、その根拠となる証拠は、ただの一個人が証明したに過ぎない問題かもしれない。そのガミガミという人の人生において基準となった証明から、逸脱する行動パターンに対して、自己の証明の立証としてある種の苛立ちと、正義を感じ、それがガミガミと上から目線でいいたくなるともいえようか。
 ただし、である。歴史は少なくとも流動的なものである。科学的な見地からいえば、天動説や地動説はその最たるものである。天動説が社会的に一般であった時代、地動説を唱えると、「それはだめです。あれはだめです。やめなさい。」といわれていたのであろう。16世紀に地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスや1)、ガリレオ・ガリレイが1616年にローマ教皇庁から地動説は異端であると訴えられ、それを理由に有罪判決を受けた事例は、まさにその歴史の流れでもある2)。今の時代において、地動説に対して反対するものはいない。むしろ、天動説を唱えているものがあるとすれば、その人の考えに対して懐疑的なまなざしを向けることは間違いない。
 では、ガミガミといいたくなる根拠の所在は、どこにあるのであろうか。
 ガリレオ・ガレリオ(図)すら、その答えは分からない。真実の行動パターンは、いつも歴史を経ることでやがて証明される。

図 ガリレオ・ガリレイの肖像画2)

1) https://ja.wikipedia.org/wiki/地動説 (閲覧2017.8.19)
2) https://ja.wikipedia.org/wiki/ガリレオ・ガリレイ (閲覧2017.8.19)

 
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