No.320

題名:なぜ、ヒトは、人として、なり得るのか?
報告者:ナンカイン

 本報告書は、基本的にNo.319の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 報告書のNo.319にて、「ヒトは人しか興味がない」であろう可能性について言及した。しかしながら、それは、あくまでも2枚からの画像から推定した結論にすぎない。場合によっては、2枚の画像以外からでも、あるいは、どういう判断材料からであろうとも、「僕は(私は)他人にまったく興味がないのですが…」と言う人もいるであろう。特に、文献1)に記載されているように、マイペースであったり、自分の世界感が他人と合わないなど、他人にまったく興味がないような考えに至るいくつかの要因も挙げられる。その結果として、「ヒトは人しか興味がない」という意見に反論したい、という方もいることも十分に理解できる。そこで、本報告書では、「ヒトは人しか興味がない」という可能性に対して、筆者なりの意見で改めて補足したい。
 なぜ、筆者が「ヒトは人しか興味がない」と言う意見に要約されたかについて、先のNo.319の報告書にある2枚の画像だけではなく、生物学的にヒトが持つ特性として認めざるを得ない理由があるからである。少なくともLINEや、Facebook、あるいは、Twitterなど各種SNSが当たり前となった現在の背景には、他の人からの何かしらの反応が得られるかもしれないとの前提があり、その行動の結果として、アプリケーションを利用することで、「いいね」などの反応が得られる。そのことが、アプリケーションを利用するモチベーションとなることは誰しもが認めることであろう。例えば、仮に、地球上からあらゆる人が存在しなくなり、そのアプリケーションから「いいね」など他人からの反応がまったく、完全になくなったとしたら….、そのような状況で、そのアプリケーションを利用したいと思う人はいるであろうか。答えは「否」であろう。例え、今の現実において、「僕は(私は)他人にまったく興味がないのですが…」という人であろうとも、この答えは同意せざるを得ないに違いない。本研究所の成り立ちも、人が存在するから、であることは十分に承知している。
 では、なぜ、ヒトは、人として、なり得るのか?
 多かれ少なかれ、「ヒトは人に興味がある」からこそ、人になれたはずである。好意的であろうとも、敵対的であろうとも、いずれの選択において、結局は「ヒトは人しか興味がない」。換言すれば、友好的でも、戦争的であろうとも、あるいは、人間不信であろうとも、現実に即して、会社で、あるいは、学校で、他人との対応がうまくいかない人も、結局は「ヒトは人しか興味がない」という結論に導かれざるを得ない。すなわち、世界に自分一人しかヒトという種が存在せず、あとは、ヒト以外の動物や植物しかいないとしたら、対人という括りで現在の問題に悩むことは、明らかにないことが事実である。先のSNSの例でこれを言えば、どのような環境におかれようとも、「ヒトは人からの「いいね」の反応なしには生きてはゆけない」、「ヒトは人からの「いいね」の反応があるからこそ生きてゆける」、「ヒトは人からの「いいね」の反応があって喜べる」が、ヒトが人たる所以でもあり、ここにおいて、「ヒトは人しか興味がない」であろう原則が、成立する。
 当たり前の原則ではあるが、なぜか今までこのことが明言されたことがなかったのかもしれない。他人からの意識を自ら意識できることが、「ヒトは人しか興味がない」という結論の裏返しでもあり、「ヒトは人からの何かしらの反応があって…」こそ、人の存在であることには、誰しもが納得いく、ことには間違いないであろう、とここで明言したい。

1) https://welq.jp/5001 (閲覧2016.10.8)

 
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