No.2487

題名:今日のお題は、「毒入りコーヒーも深炒りだと推測する。」
報告者:ダレナン

(No.2486の続き)
 では、手ぶらでコートだけ羽織って特急あさまにのった羽村の服毒のコーヒーはどこにしまってあったのか。

 車内駅員:「すいません。乗車券を拝見します」
そういわれた後、羽村はどきりとした表情で駅員をみる。コートの内ポケットに手を忍ばせる。左手はまるでコーヒーカップを抱えているかのようだ。まさに毒入りコーヒーを忍ばせているとしたらそこしかない。たぶん繭からの手紙とともにそのポケットには毒入りコーヒーが入っていたと推測する。そしてそのコーヒーも紙コップでふたがかぶせるタイプだとも推測できる。深読みしすぎでしょうか。
 ただ、毒入りコーヒーも深炒りだと推測する。そうすればその毒を感じずに飲めるはず。今日のお題は、「毒入りコーヒーも深炒りだと推測する。」
 なお脚本家の野島伸司は、1993年の映画用グッズ「高校教師手帳」でエンディングに関して次のようなコメントを残しているようです。

「見る人の判断にゆだねたい。死んだか生きているかは、その人の想いに任せます。ただひとつ言えることは、ラストシーン(列車のシートで二人が寄り添う)はハッピーエンドであったということ。二人の生死の決定はもはや作家の圏外で、視聴者が決めればいいと思っている。」(1)

「たった一人からの、永遠に愛し、愛されること」。幻覚であっても幻覚内ではそうであり、かつ現実においてもそうだった二人は、まさにこのドラマ「高校教師」のように永遠の存在となりました。
 僕の中では羽村と繭は未だに生き続けている。ドラマという枠を超えて。
 そうして僕の「高校教師」の深入りコーヒー的考察をここで終えたい。
 きっとその考察は間違えているかもしれないが、そんなのはどうでもいい。TVドラマ「高校教師」(1993年)自体は間違いなく、永遠に愛し、愛されるドラマであった、ことは間違いないのだから。

 そして僕には偶然か必然かわかりませんが、当時読んでいた本があった。たぶん同時期だったように思います。それが村上春樹の「ノルウェイの森」です。
 その本の中には羽村が新庄に伝えた死と生に関する「紙一重」と同じような意味合いの文面があります。それが

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」

です。
(1) https://ja.wikipedia.org/wiki/高校教師_(1993年のテレビドラマ)

 
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