題名:産みの難、それって難産ス
報告者:ダレナン
本報告書は、基本的に No.2080の続きであることを、ここで前もってことわりたい。
インター・アドベンチャーは僕たちが開発したゲームソフトの販売とそれに関するグッズの小売を主体とするベンチャー企業だった。1997年はインターネットが拡大するとともに、まだまだソフトの小売が勢力を増していた時代だった。僕たちは運良く一本目のシミュレーションゲームソフト、”エクソ・ラビリンス”が一部でもてはやされ、ヒットし、それによってグッズも飛躍的に売れてはじめていた。でも、次なるヒットの2本目になかなか苦戦していた。そこで、大きく路線を変更してグッズ等の販売はやめ、オンラインゲームにシフトすることに決めた。1999年頃だったように思う。
その年は2000年問題もあり、随分と徹夜をして過ごしたことを覚えている。ジェニファーと会う時間もめっきり減り、小売をやめ、オンラインへと方向変換したために、パーティなどにも出る必要もなくなった。その代わり、毎日プログラミング、コーディングとデバッキングの連続だった。寝る間も惜しみ、心血を注いで2000年初頭にようやく完成したストラテジーゲーム”フォンタナ・ツリー”は、結果的に”エクソ・ラビリンス”を支持していた僕たちの顧客の期待をも裏切ることになり、ゲーム自体の出来も批評家にも酷評され、僕たちは資産の全てと特許の全てを別のアクソンゲーム社に売却した。そして、インター・アドベンチャーを失った。
ただ、トニーはそのシナリオ能力の高さを買われ、アクソンゲーム社でクリエイティブディレクターに就任した。その後もいくつかの企業を渡り歩きつつ、今でもゲーム業界で活躍している。
僕は、結局のところジェニファーも失い、そして日本に帰国して医科大学に入り直した。”フォンタナ・ツリー”を制作する際に色々と資料をあたった時、その中でpatient O.T.なる人物が描かれていた論文にとても興味が惹かれたからだった。
ジェニファーといえば、いくつかのパーティでの手腕が認められたみたいで、その後金融業界に移籍した。当時僕と別れたきっかけでもあった新しい恋人のロバート・ランドルフと結婚し、順風満帆な生活を送っているらしい。
そんな人生の変わり目だった。
とまあここで、再び①情景描写がないことに気づいた。悪い癖だ。つい自分のことばかり喋り、その背景にある情景に触れていないことは、物語のリアリティを失うことにもなる。
そこで、改めよう。以下は、ジェニファーと別れた時のことを詳しく描写したい。
産みの難、それって難産ス、という感じで”フォンタナ・ツリー”がようやく日の目を見た。少なくともテスト段階では満足のいく出来だった。トニーも一部のシナリオに不満があり、実現化できなかったものの7割は満足のいく出来だと述べていた。ただ、今の(1999年当時)のオンライン能力ではトニーの希望する目標までには技術的な制約もあり、追いついていなかったことも事実だった。ゲームシナリオ案の段階ではかなり壮大なゲームになりそうだったものの…、それが残念で仕方ない。