題名:この目玉焼きは
報告者:ダレナン
本報告書は、基本的に No.1984の続きであることを、ここで前もってことわりたい。
精神は退化しても、わたしはリリー・フランキーさんの「スナック ラジオ」をスマホのradikoで聴きつつ、1.3社ぐらいの尺度で精神が高揚していた。
「ええなー、この放送。めっちゃ、ええわ」
たまたま、本当にたまたまだが、たまたま買い物によく行く時間でよく聞くたまたまの放送だった、最初は。でも、そのたまたまは、たまたまで、そうして厚顔する。厚顔なたまたま。いやー、恥ずかしいわー。たまたましちゃうと。
そこで、たまたまでなく、radikoでたまたまでなく毎週聞くように心がけた。それは、この放送へのリリー・フランキーさんへの会話の巧みさを学ぶべき、わたし自らへの戒めでもあった。その戒めは、焼きに入り、そうして、
「この目玉焼きはいい具合に焼けている…」(図)
図 目玉焼き1)
そう思えた。それは、リリー・フランキーさんの会話の美味さに焼けているわたしでもあった。その会話は、もはや、絵か、本物か、区別がつかないまでに高度ななせる技であった。だから楽しいのだ。「スナック ラジオ」に赴きたい。でも、わたしにはこの図に対して、それは描けなくとも、料理する側として少しは反論したくなった。なぜなら、
「目玉焼きは、黄身の表面が若干白くなる時点がベストだ」
ということを自負しているからだ。だから、なんだ。それが、その少しの反論が意味のあることなのか、と問われても、「いやー、意味ないことですぅ」とも言える。それも本心からだ。だから、テキトーにこの後も文章を流す。なぜなら、なぜなら、なぜなら、の×3で、どこかで仕入れた情報だが、どこで仕入れた情報かすっかり忘れたが、こう書いてあったことを思い出したからだ。
(たぶんネット上のということだったと思うが)「5行を超える文章は、ほとんど誰にも読まれない」
ここですでに、24行だった。もう読まれてはいない。他人の文章さえも、最近のわたしは、ろくすっぽ精査せずに、流し読みするようになり、ここでは同じように誰も読んでいないだろうな…と思える。
新庄選手とは真逆に、記録に残っても、記憶には残らない。そんな文章をわたしは喜んでしたためていた。
1) https://www.pinterest.jp/pin/737745982699623253/ (閲覧2021.3.6)