No.1967

題名:網膜に記録した何か
報告者:ダレナン

 僕は時折、無性に何かを記録したくなる。それは文章であり、そして画像だった。
 文章ならばこうしてここにあるようにしたためればいい。それは鉛筆でも、ボールペンでも、万年筆でも、あるいはキーボードでもできる。紙(時には電子媒体)と記述する道具さえあればいい。
 でも、画像はそうはいかない。
 例えば、目に映ったものを記録する。
 頭の中に。
 でも、その記録は、時間とともに失われ、次第にその痕跡すら無くなってしまう。
 それが記憶の忘却だとすれば、やはり何かの道具に頼らなければならない。それは、カメラであり、スマホであり、時によってビデオそれともスマホによる動画だった。
 あるいは、そのカメラで二眼するも(図)、僕の片目はすでに視力がかなり落ちていたことに気づいている。また、それにつられて、良かった方の眼の視力も、近頃かなり衰え始めていた。
 僕は最近、気づくとまじかでディスプレイを見ている。その距離、約30cmだ。時には10cmにまで近寄り、思い切りブルーライトを浴びる。
 だから、記録するには、二眼のカメラでそれを実践せなばなるまい。そこに、ブルーライトは現れない。その安心感は、僕の両目は、決して、まだ光が見えているはずだと肌で感じる。視力で感じる。

図 二眼1)
 
 僕の両目にはまだ光があると。
 もうすぐその光が見えなくなったとしても、今の僕の両目には、今はまだ光が宿っている。
 「愛しいあなたの…」
 そして、その二眼には、古くとも、フィルムあるいは網膜そして脳内に確実に露光するはずだった。

 でも、すでに、その露光は時代とともに失われ、僕の中の光も失われ始めていた。

 時代はデジタルとなり、露光は意味をなさなくなっていた。だから、僕はついそこら中にあるインターネッツ上のコンテンツに頼る。自分が露光するよりも、露光して路頭するよりも、デジタルの恩恵にあずかる方が、僕の網膜に安易に何かが記録されるからだった。そして、その網膜に記録した何かが、記憶となって頭の中で露光する。
 僕の頭の中の光が点滅し、脳内のフィルムに転写する。
 転写され、そして気づいた。

1) https://www.pinterest.jp/pin/12033123989447008/ (閲覧2021.2.23)

 
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