No.1896

題名:伊香保していた
報告者:ダレナン

 本報告書は、基本的にNo.1895の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 駅構内のトイレで、鏡の中の自分を見て、まるで浮浪者だ、一端出直す必要がある、と思えた。本来の僕は、比較的綺麗好きなはずだ。こんな格好をしていることに平気になった自分を、自分自身で驚愕した。それは何かが戻りつつある予兆だった。だから、もう一回、家で仕切り直すことも必要だった。そう感じた。
 家に戻ってから、僕は顔や体の一つ一つを確認した。かなり痩せてはいた。でも、目には生気が戻っている。僕には、シズコを探すという目標が見つかったからかもしれない。あるいは、シズコとクミちゃんとの接点かもしれない。いずれにせよ、今の僕は、幾分、まともになっている。
 風呂で体の汚れを落とし、髭をそり、再び自分の顔をチェックした。
(勤めていた頃よりも、むしろこれが本来の自分だ)
 あの当時の、ギラギラしていた自分に戻れていた気がした。
 あの当時?
 どの当時?
 詳しくはその時期が分からなくとも、僕は還っていた。
 嫌な顧客におべんちゃらを使うことなく、「すごいですね」、「さすが」という心の否定とは裏腹の言葉を投げかける必要もない。本来の居場所に還る世界。今の僕は、単純に、ごく単純に、妻シズコを探せばいいんだ。そう、安堵した。それは心からの肯定の言葉だった。
 一息ついて冷蔵庫から妻の「ザ・ブリュー」を取り出し、飲んだ。幾分、それも悪くはなかった。それでもいいかと思えた。
 「ザ・ブリュー」を飲んだ後、クリーニングされた真新しいスーツに着替えたものの、いややっぱりスーツでなくともいいだろう、もう会社勤めは首だろうし…、そう思い直して、普段着に着直した。
 上は黒のフリースに、下は少しだけ茶色のパンツ。パンツのサイドにはポケットがついているやつ。これが僕のお気に入りだった。いつも同じ服着ている…、とシズコにはよく言われた。だから、これに決めた、というか、これでいいや。そして、もう一度バックの中身をチェックした。下着、写真、チキンラーメン?、が入っていた。
(お湯をどこで調達するんだ。温泉のお湯か…)
と自分自身のチョイスに疑問を抱きながら、その中身はそのままに、ハイネケンも入れた。冷蔵庫にはなくとも、常温でも飲みやすいハイネケン。「ザ・ブリュー」もいいが、やっぱり僕にはこれでなきゃ。
 再び、地下鉄の駅に向かった。今度は誰も僕をじろじろと見たりはしない。僕は、その駅構内の乗客の中に、見事に溶け込んでいた。
 駅のプラットフォームで電車を待っていた。
「まもなく、5番線に電車が参ります」
 いつもの女性の声でアナウンスが聞こえた。スマホを確認すると、妻シズコへのメッセージは相変わらず既読にはなっていない。
 でも、いいんだ。それでいいんだ。僕の気持ちは、すでに伊香保していた。

 
pdfをダウンロードする


地底たる謎の研究室のサイトでも、テキスト版をご確認いただけます。ここをクリックすると記事の題名でサイト内を容易に検索できます。



...その他の研究報告書もどうぞ