No.1880

題名:何かが不安定で崩れている。
報告者:ダレナン

 本報告書は、基本的にNo.1879の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 地下鉄に乗りながら、ふと妻の顔を詳細に思い出した。電車外では、次々と壁に書かれた広告が変わってゆく。見上げると、電車内の広告も変わっていた。いつまでもそこにはとどまっていない。チェンジする。
 流動的だ。広告も、人の心も。昔とは変わった。しわ一本一本が、かつてとは異なっていた。そこには5年の年月が刻まれていた。
(じゃぁ、わたしのことどうするの? 別れて、その受付の子と一緒にいたいわけ? この5年はなんだったのよ。返してよ、わたしに返してよ)
(カレーと同じでたった一晩でも、何かが熟成するんだ。僕にもその理由は分からない。5年というよりも、たった一晩で)
(何が言いたいわけ? 一晩でわたしをチェンジしたのはチェンジさせたのは、あなたでしょ。ダリオ)
(でも、クミちゃんとは食事会なんだ、仕事上の)
(そんなの嘘よ)
(一線は超えてない)
(あたりまえじゃない。そんなことしてたら、わたしここにはもういない。もうここにはいられないの)
 妻の泣く顔が見えた。
(でも、シズコは僕のことを理解していない。僕を理解している。…?)
(理解しようとしてるじゃない。あなたこそ、すぐに心を閉ざすじゃないの。だから、わたしに理解しろって言われても、それはあなたにも、問題があるんでしょ)
 妻の言うことももっともだった。僕は都合が悪くなるとすぐに心を閉ざす。自分を守りたいからだ。じっとして、自分という殻に閉じこもれば、きっとその場も流動的にいつか変わる。そこに関わらなくとも、いつか変わる。消費される広告のように、いつかは忘れ去られる。だから、僕は沈黙する。面倒なことに巻き込まれたくはない。

 会社につくとクミちゃんが待っていた。受付だから待っているのは当たり前だったが、プレートを見ると今日はハートマークがなぜか2つあった。「おはようございます。タケヒサさん」。
いつもに増して元気よく、クミちゃんは僕に向かってあいさつした。その後、急に席を立ち、僕の手に紙を忍ばせた。そして、こっそり「後で見てね」と告げられた。
 エレベーターに乗り、階に上がった後、僕はすぐにトイレに駆け込んだ。そして、ドアを閉め、う○こをする素振りで便器に座り、紙に書かれている内容を見た。
<今日、実は、わたしの誕生日なの。初めて行ったレストランで19時に待ってる♡♡>
 そう書かれてあった。プレートと同じくハートマークも2つ、そこにあった。
 初めて見たクミちゃんの直筆の筆跡だった。格調たる筆記体ではなかった。習字でも習っていたかのように、筆記体がベースとなっていることは見て取れたが、部分部分に崩れた感じがあった。しかし、それが彼女の性格そのものを表しているかのようだった。部分部分に崩れている。何かが不安定で崩れている。

 
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