No.1255

題名:おやすみなさいと眠るのだ
報告者:ダレナン

 本報告書は、基本的にNo.1254の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 安住を求める気持ちと裏腹に、いつも何かに刺激を求める。それは、自分という存在性の確証なのかもしれない。誰かが、誰かが、己を認めてほしいと感じつつも、その誰からかの承認は、この上なく厄介となる。それは、自分自身が、認められるべく存在性を放っていないからである。そうして、そういう気持ちは裏に隠して、それが偽りであってもそれを安住として求める。偽りの承認でもって、自分はそこに居るということを確証する。誰のためでもない自分の気持ちを安住させるため。
 弱きものを助け、強きものにこびへつらう。そうして、自分の存在性をないままに、他人へと投射するその自我は、本当は、何もないに等しいものの、その空虚な自我でもって、自己を確立する。その行いは、多かれ、少なかれ、人には、必ずしも、あるであろう、厄介な感情である。
 誰のため、何のため、その思いでもって、そのわずらわしさから、いつしか自分の世界に埋没する。その埋没は、本当の自我に目覚める瞬間でもある。でも、誰もがその瞬間には立ち会えない。誰もが、芸術家然としてその心理を確立できるのではなく、常に自分以外の周りを意識してしまう。しかしながら、真の芸術は、殻に閉じこもった状態での、己の爆発である。それは、傍から見ると、変態かもしれない。でも、常に、その変態性を問えることが、他人に振り回されない自我を確立できる唯一の手段であろうか。
 ここで、ひゃほーと何かがこだまする。そのこだまは、やまびこのように繰り返し、繰り返して反響し、少しずつ消えてゆく。その過程で、目指すべきものは山の頂上でも、山のピークでもない。あれっ、頂上も、ピークも意味が同じなのでは、と問われるも、別段、登頂に興味がない。興味があるのは、山という世俗的な空間とは別の、自然が持つ野性的な空間であり、そこでは、誰に対してもこびへつらうことなく、自己の責任に基づく、未知なる領域、空間へのあくなき探求心という山なのだ。そこでは、誰も助けてはくれない。自分自身で山道を確認しなければならない。誰かが、なんと言おうとも関係なく、己の山道を進むのだ。結果がどうであれ。
 砂漠での歩みは、前も、後も、砂であり、広大な砂漠では、どこにオアシスがあるのかは分からない。でも、歩まなければ、「マックス」に出逢えない(No.1254)。その過程が、生であれ、死であれ、そこに至るまでの選択は、自我に基づく。誰かが助けてくれるわけではない。誰の助けもない。自分が信じる歩みを、気ままに選択するのだ。
 結構、複雑なことを書いたの? でも、どう解釈しようとも、別にそれはその人の考え? 筆者の気持ちは、ただ

図 眠るのだ1)

眠いだけかもしれない。そこで、世俗を忘れて、おやすみなさいと眠るのだ(図)。

1) https://www.pinterest.jp/pin/445997169347794637/ (閲覧2019.6.1)

 
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