No.1088

題名:何もない空間のための美的なセンス
報告者:ナンカイン

 人の顔に関しては、その美しいと感じられる基準について、先頃の報告書のNo.1084、No.1085を含めて様々な検討が実施された。さらに、能との関連に筆者の報告書のNo.1086において、検討できた。しかしながら、筆者の本音的な意見として、それらでもっても、何故か、何か、確実な結論が実感できていないと感じられてならない。それは、やはり決定的な本質を見出していない(できていない)からかもしれない。いくら顔の表面をなぞったとしても、顔面をパーツに基づく配置を検討したとしても、そこから引き出される総合的な空間における、本質な美が見出せてはいない。なぜか、いつも、そう、感じる。そこから類推するに、世阿弥がプロデュースした能のすべての世界感までには、筆者は間違いなく至っていない。世阿弥の業績を考えると、そこは明らかではあるが、やはり世阿弥が観た真の美的な本質を見出すまでのレベルに達するまでは、思想の深化をつねづね要する。それは当たり前として、目の前に達する世界観としてその観念がその時代に深化すべく存在している。同じように、日本の文化を変えた千利休にしろ、筆者が敬愛してやまない、それら文化的な偉人の奥底には、人知れず努力があり、それを活かすべくセンシティブな感性が、そこに根差し、今で伝えられる地位を築いたのは間違いない。
 ただし、一個人として、少ない影響とあれども、先人の偉業に近づきたいと願うのは、許していただきたい。筆者個人としては先人の域に到達したい気持ちがあるのは、山々である。彼らを敬った上での、愚行であってもそれは構わない。超えられない努力としても、筆者なりに故人の偉業を新たな時代を経た者として、ぜひ引き継ぎたいのは、やぶさかではない。
 そこで、図を提示すると、言うまもなくそこには、何もない空間が存在する。何もない。でも、美的には何かある。そのセンスはどうしてあるのであろうか。図はサンフランシスコの写真家Nirav Patel氏2)によるが、これを見てハッと気づいた。何かある。何もない空間は、筆者の頭の中である。

図 何もない空間1)

 どうしたら、世阿弥、千利休のような感性にまで近づけるのであろうか。まったく分からない。ただし、何もない空間としての筆者の頭の中でも美的には何かを感じた。それは、筆者個人の意見であっても、現代的なコンテンツの価値として、ここに記すべく報告した。その内容が、世阿弥、千利休により違うと反対されたとしても、筆者なりに報告した。「どうでもよくても、現在のコンテンツの価値は複雑です」、と改めて世阿弥、千利休に伝えたい。彼らの生まれ代わりがいた今にいたとしたら、これをどう感じるのであろうか。たぶん呆れるかもしれないが、その答えは、ありがとうございます、である。
 何だろう、この美しいと感じてしまう根拠はどこからくるのであろうか。そうして、読み返すと、文面自体にも何もないことにも気づいた。そうして、ひよひよとからっぽの頭の中で美的な扇子の風が吹く。

1) https://www.pinterest.jp/pin/662029213951546838/?lp=true (閲覧2019.2.22)
2) http://www.niravpatelphoto.com/ (閲覧2019.2.22)

 
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