No.1076

題名:言論「背徳なる日々へのオデッセイ」に対する表象
報告者:ダレナン

 「我が内なる声を聞け」とは、自分自身を問い、自分自身を客観的に知る観察行為に他ならないが、自己の内面は、自己のみぞ知る。それゆえに、自己の内面は主観的な世界であり、その主観的な世界でもって、自己の行為の客観的な存在を証明することは難しい。誰しもが万能な神ではなく、むしろ人類たる自己の奥底に潜む内面は、自分自身も気づかない獣性を秘めている。
 覆い隠す。そして、自己の外面にマスクを纏う(図)。こうすることで、誰しもが、その本性を晒すことがない。
 白日の下に、本性を晒さない(晒されない)マスクは、自己の内面を守る。しかしながら、それと同時に、自己の本性への客観性も失われる。本性への客観性を失うことで、表向きの主たる自己も見失い、その時ばかりと、我は本性を暴く。そうして、我が内なる声にも耳を貸さなくなる。客観性なき獣性は、獣のそれと変わりがない。
 背徳とは、道徳にそむくことであり、背徳感とは、本来あるべき人の道から外れた、または背いたという後ろめたい感覚で、罪悪感ともなる2), 3)。その感覚から読み解くと、客観性なき獣性は、後の罪悪感にも繋がるが、剥がれなくなったマスクも、自己の本性を、本来あるべき自己の姿とも重ねない。こうして、背徳なる日々を過ごしつつ、次へのオデッセイ((知的な)探求、追求4))を試みたとしても、オディティ(一風変わっている人、奇妙な性格5))へと解釈される。

図 マスクを被る1)

 何かが違う。
 かといって、
 獣性を呼び覚ますことも、
 マスクを剥がすこともできない。

もう一度、問いたい。「我が内なる声を聞け」とは、何であろうか。
 内面にある真紅な血は、知とともに、やがて地に流れる。これすらも、口に纏ったとしても、背徳感は拭えない。そうして、再び、「我が内なる声に耳を傾ける」。

1) https://www.pinterest.jp/pin/737745982687225719/ (閲覧2019.2.14)
2) https://www.weblio.jp/content/背徳 (閲覧2019.2.14)
3) https://www.weblio.jp/content/背徳感 (閲覧2019.2.14)
4) https://eow.alc.co.jp/search?q=odyssey (閲覧2019.2.14)
5) https://eow.alc.co.jp/search?q=oddity (閲覧2019.2.14)

 
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