No.1032

題名:ヤン=ヘオツクバル・オットーロに基づく映画芸術に関する若干の考察
報告者:ナンカイン

 今世紀において、最大で、かつ、最高の、芸術的な試論を重ねたヤン=ヘオツクバル・オットーロ氏に関して、ここで改めて言うまでもない。その一方で、氏が亡くなる1999年の直前まで記述された氏のライフワークとも言える集大成書、大著「芸術的な若干の考察 (Malé umelecké úvahy)」1)は、全世界に衝撃を与え、初版から数えてすでに二十年経過しているものの、そのテクストの勢いは未だに衰えない。それどころか、芸術に関する本質を見抜いたこの大著は、この先の芸術界への大いなる道しるべとも言われ、あらゆる芸術的な創作は、もはやオットーロ氏の見識を、避けて通ることはできないとまで伝えられている。
 一方、映画に関して、報告書のNo.702でも示されたが、フランスのリュミエール兄弟を始まりとして、現在では一大産業でもある。映画を上映する映画館としての発展・変化は、筆者でもってNo.711で示したところではあるが、映画自体はその上映方法・媒体は時代の流れで移り行くも、この先、なくなりはしないであろう。ただし、静止画としての絵画、彫像としての彫刻に比べて、動画としての映画、その背景としてのセット、あるいは、静止画からフレーム化してアニメ、CGとするような映画特有の表現形態は、未だに、芸術というよりも、エンタテイメントとしての扱いに近い。世界最大の美術館でもあるルーブル美術館においても、膨大な映画の製作量に比べて、芸術的にわずかしか扱われていない2)。そのような事態に対して、ヤン=ヘオツクバル・オットーロ氏も「芸術的な若干の考察」において、こう述べている。「映画は、如何にして芸術か、あるいは、如何にして芸術でないか、というテクストの特異性があり、それが映画芸術における非対称性を生み出している」1)。そこで、本報告書では、ヤン=ヘオツクバル・オットーロ氏による全88801巻からなる大著「芸術的な若干の考察」から、その中でも、特に、映画芸術に関する議(ギ)論を抜き出して、その非対称性をまとめてみたい。大著ゆえにまとめるのは、大層に気が引けるものの、そこは筆者なりに努力したい。
 映画は始め、限定された空間での動く写真であった。それがこの空間が打破されたとき、作者によって自分の物語をショットに分割したらどうかと想像し、演劇を撮影する代わりに瞬間の連続を記録し、キャメラを接近させたり、あるいは、交代させたりしようと試みた時、そして、とりわけ、演劇の舞台にフレームを、すなわち、スクリーンによって区切られるべき空間を取って代わらせた時に、再現ではない表現の手段として映画が誕生した。これは、完全にアンドレー・マルロー氏3)の意見である。そして、アンドレー・マルロー氏3)によれば、それを芸術としての映画の様式で、「デクパージュの発明」とした。しかしながら、映画に、産業としての側面が前面に出た時から、映画は芸術ではなく、大衆の気晴らしや娯楽、さらにはジャーナリズムの領域のものとなる。これも、アンドレー・マルロー氏3)の意見である。さらには、スターという存在や神話としての映画を通じて、観客が人間を超えたものの力や、死すべき人間の運命と闘う自身の姿を投影させる力を感じとる以上、映画に芸術としての力がある、とのことで、これも、アンドレー・マルロー氏3)による意見である。すなわち、ヤン=ヘオツクバル・オットーロ氏曰く、「いやん。へをつくばると、おっとろしーの。たいちょそぉーなほど、おっとろしーの。」となろうか。すべては、へが成した報告書であり、ここには、テキトーな偽(ギ)論の臭いが若干するかもしれない。

1) Ottolo, YH: Malé umelecké úvahy. Dar. Publishing. 1999.
2) https://www.louvre.fr/films (閲覧2019.1.7)
3) 石川典子: 芸術としての映画 アンドレー・マルローの初期映画論. 年報 地域文化研究 18: 24-46,2014.

 
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