題名:退屈についての検討
報告者:ナンカイン
関西学院大学の高畑由紀夫博士は、文献1)の中でこう告げている。「退屈についてレポートを書け」と。そしてその結びには、”退屈”の本質は奥が深く、心理学でも、哲学でも、なんでも議論できる、と示されている。これは面白そうな題材である。そこで、本報告書は、この退屈について検討するものである。
高畑博士に習い、Wikipediaで退屈について調べると、退屈とは、「なすべきことがなくて時間をもてあましその状況に嫌気がさしている様、もしくは実行中の事柄について関心を失い飽きている様、及びその感情である。」2)とされている。今は、こうして報告書を書いていることから、時間は持て余していない。さらに、退屈とはなんぞやとの疑問に答えるべく、関心があることから、飽きている感情もない。そのことから、今、退屈はしていない。退屈はしていないのに、退屈について考える。非退屈な状態でもって、是退屈を捉えるのは、いささかおかしい。そのため、検討できない。としたいところではあるが、「退屈についてレポートが書け」なくては、高畑博士の命に従っていないこととなり、それでは納得できない。そのような使命感に今猛烈に駆られている。そこで、文献1)を読み進めると、次のくだりがあった。
「”野生”のサルに”退屈”はない」
これが大いなるヒントとなりそうである。そうして、動物園等の狭い檻に閉じ込められていると、サルだけでなく、肉食獣や猛禽類なども”自由”が奪われ、拘禁反応として、絶えず身体を小刻みにする、自分の毛をむしる、などのような常同行動が出現するとされる1)。すなわち、”自由”を奪われたことで、動物は苦痛となる1)。そのような普段見られず、合理的とは思えない行動によって、”退屈”の存在が類推できる、と高畑博士は改めて述べている。これらのことから、退屈を検討する際のキーワードは、”自由”となるのかもしれない。先のWikipediaには”時間”、”嫌気”、”飽きる”、とあるが、”自由”については言及されていない。そこで考えてみる。”野生”のサルは、はたして”自由”なのであろうか。
”野生”とは、食うか食われるかの世界であり、弱肉強食の世相から、常に安全がなく、危険にさらされている。いわば危機感が常にそこにはあることとなる。さらに、文献1)を読み進めると、フランスの小説家のジュール・ルナールの名言が引用され、「人生は短い。しかし、退屈はその居場所を見つけえぬほど短い人生はない。」とある。しかしながら、これがやや意味がとりにくいことから、文献3)でもって新たに引用しなおすと、「人生は短いが、それでも人間は退屈する。」となる。結局、ヒトという動物が、人という文化を纏うことで、退屈になる。これを先の危機感と交えて”退屈”を定義すると、”退屈”とは
「安全の上にある”自由”さ」
となるのかもしれない。そうして、ここで紙面が終わり、高畑博士の命が解かれたことで、是退屈へと至る。
1) http://kg-sps.jp/blogs/takahata/2010/06/12/1758/ (閲覧2018.10.27)
2) https://ja.wikipedia.org/wiki/退屈 (閲覧2018.10.27)
3) https://meigennavi.net/word/017/017847.htm (閲覧2018.10.27)