題名:大正ロマンを体現した作家、竹久夢二
報告者:アダム&ナッシュ
本報告書は、基本的にNo.930の続きであることを、ここで前もってことわりたい。
大正時代は、明治時代から昭和時代の移り変わりにあり、その年数は1912-1926年の約15年ほどである。しかしながら、日清、日露の2度の戦勝から、その勢いを得て第一次世界大戦にも参戦し、国威の発揚に沸いた時代で、言わば激動の時代でもある1)。その時代の構造的な変化は、良い点としては伝統を打破し、西洋文化の影響を取り入れるきっかけをもたらしたが、経済的な変動も大きく、追い打ちをかけるように関東大震災(1923年)も起こり、人々が社会に目を向ける事を避け、刹那的な享楽にも走る1)。そして、社会不安に通底するアンビバレントな葛藤や心理的摩擦によるロマンティシズム (大正ロマン)から、芸術作品にはアール・ヌーヴォーやアール・デコ、表現主義など、西洋文化の世紀末(デカダンス)芸術から影響を受けたものも多い1), 2)。その大正ロマンを代表する日本の作家に、竹久夢二氏がいる。先の報告書(No.930)のタマラ・ド・レンピッカさんは、アール・デコの画家として著名であったが、竹久夢二氏はどちらかといえば、繊細な線使いから、アール・ヌーヴォーを基調とし、そこに日本らしい風流さを醸し出している。しかしながら、フランスの狂気の時代といい、日本の大正ロマンといい、やはりその時代が成した芸術の作風であることは間違いない(報告書のNo.929)。
竹久夢二氏は1884-1934年に活躍したが、多くの絵は「夢二式」ともいわれ、そこはかとない寂しさや悲しさ、切なさといった感傷的な感情を含み3)、現在も人気の高い作家である。代表作に”黒船屋”があるが、絵以外でも”宵待草”の詩も有名であり、「まてど暮せど来ぬひとを 宵待草のやるせなさ こよひは月も出ぬさうな」とい
図 竹久夢二氏の絵と詩の作例4)
うフレーズは聞いたことがある方も多いに違いない。”宵待草”とその挿絵を図に示す。ただし、当時は、絵だけでなく、宵待草のような詩や短歌、その他、千代紙、封筒の文具なども手掛け、1914年にはそれらの商品を売る「港屋絵草紙店」も妻のたまきと開業していることから、多分野に渡って仕事をしたことになる2), 5)。それゆえに、同時代の美術界からは画家としては認められてはいなかった2)。また、妻のたまき以外にも、お店の客であった彦乃や、旅先で出会ったお葉という女性とも浮き名を流し、その作風もそれらの女性との純愛、愛執、葛藤から絵の実在感にも大きく影響を及ぼしている5)。その浮き名は今の時代であれば社会的に叩かれる要素も多いかもしれないが、そこはやはり大正ロマンという不安定な時代ゆえの自由恋愛(かけがえのない至上の愛5))だったのかもしれない。
1) https://www.weblio.jp/wkpja/content/大正ロマン_大正ロマンの概要 (閲覧2018.10.9)
2) Shenk, S: 大正ロマンにおけるアール・ヌーヴォーの受容. アルザス日欧知的交流事業 日本研究セミナー「大正/戦前」報告書. 2014.
3) 小嶋洋子: 竹久夢二における感情の諸相 さらなる夢二理解の可能性に向けて. 関西学院大学博士論文. 2012..
4) https://plaza.rakuten.co.jp/dadtwent/diary/201706040001/ (閲覧2018.10.9)
5) 竹久夢二 ハイカラからモダンヘ. 青山學院女子短期大學紀要 47: 151-169, 1993.