題名:現実の不如意を書く、語りきな口承
報告者:ダレナン
口承(口から口へと伝えること、あるいは伝えられたもの1))される昔話は、一体誰が考えたのか。特に、作者不詳の昔話は、一体誰が考え出したのか。それを知ることは、今ではほとんどできない。物的な証拠、例えば石碑などの何かに残っていればまだしも、物語は、人の口から人の口へと伝わり、それで時おり伝わった内容が変化しつつ、その地その地でアレンジされ、その地の物語としてやがて定着する形のない存在である。そのため、口承とは、ある種、伝言ゲームでもある。そして、それは、介在する人によって、その物語が劣化コピーしたり、あるいは、場合によって熟成コピーすることによって、いか様にも変貌を遂げる。ただし、不思議なことにその物語のエッセンスは残る。そして、ある時を境に、その口承された物語が、誰かによって明確に記述化されることによって、ようやくその地での正式な物語として残る。それが伝承された昔話としてその地で語られる。
様々な昔話の中でも「桃太郎」は有名であり、その物語は日本に住む方ならば、なんとなく知っているであろう。一方、その「桃太郎」の「桃」を「瓜」に置き換えることで、同じようなシノプシスの物語も存在する。それが「瓜子姫」である。なお、「瓜子姫」の詳細なシノプシスについては、文献2)を参照していただきたいが、筆者なりにかいつまんで述べると、「瓜」から生まれた女の子が、成長すると素晴らしい機織り技術を有し、それを妬みやっかむ天邪鬼がその女性に化けたものの、最後は天邪鬼のその所業がばれ、天邪鬼は殺されてしまう、という物語となる。
口承文学学を樹立した柳田國男の研究者で、それらを海外の口承と比較する伝承文学を専門とする研究者の高木昌史博士によれば、「桃太郎」と「瓜子姫」は、ともに果実から生まれた子の物語であり、前者は鬼が島で鬼を退治した英雄であるのに対して、後者は天邪鬼に襲われるか弱い娘を描き、その部分が異なるも、果実から生まれた子が、人界において成長し、事業を成し遂げた点において左右一対であることを指摘している2)。ここでいう事業とは「桃太郎」ならば、卓越した身体・精神能力の獲得に伴う男性性、「瓜子姫」ならば、卓越した機織り技能を持つ女性性となろうが、この物語の最後は、西日本や東日本などの地方によって微妙に異なる2)。ただし、いずれにおいても、天邪鬼の存在自体は、思うにままならない現実を受け容れ、逆にそれを楽しむための存在、しかも、素姓としては悪魔の系譜に属する役者であり、現実の不如意(思い通りにならないこと。また、そのさま3))としての表現であることも述べている2)。すなわち、天邪鬼の行動には、人生の真実が凝縮されているのである2)。そして、否応なく日常に割り込んでくる悪や危機を絡ませながら、必ずしも順調・平穏には進行しない現実を負の側面もろとも映し出すことで、それを乗り越える勇気と希望、そして、知恵を与えてくれることも、口承には存在することを示唆している2)。確かに、コンピューターのネットワーク上のやり取りにおいても、妬みやっかみなどは、攻撃的なコメントとして所業が存在するのは、ある種、天邪鬼的な行動でもあることが類推され、コンピューターによるネットワークが存在しない時代の口承の人によるネットワークでも同じようなエッセンスが存在することは、如何に人間の本質(エッセンス)が変化しにくいかを如実に表していることをも示唆しているのかもしれない。
1) https://ja.wikipedia.org/wiki/口承 (閲覧2018.8.24)
2) 高木昌史: 瓜子姫/三つのオレンジ. 成城文藝 222: 45-64, 2013.
3) https://dictionary.goo.ne.jp/jn/194348/meaning/m0u/ (閲覧2018.8.24)