題名:愛とは何か?
報告者:ダレナン
愛について語ることはある種、哲学になるであろう。愛は目に見えるものではないが、人が人を形成する上で欠かせないものである。しかしながら、目に見えないことが厄介であり、それが愛のもどかしい点でもある。目に見えないから、あらゆる風に解釈でき、あらゆる風に解釈される。愛の科学的な証明も未だ明らかにはされてはいない。しかしながら、近年では脳の活動を調べるMRIやPETやNIRSなどといった機器も増え、その機器により愛に関する脳内の神経的な活動の所在については、明らかにされつつある。Fisherら1)によれば、脳幹の右腹側被蓋野と尾状核の右後背部が愛によって活性されることが報告されている。しかしながら、愛に伴う脳内の活性の所在が明らかになったとしても、身近に好意を寄せる人にすら、その科学性を、自由に、的確に、応用することができない。活性部位が分かっても結局は愛への応用がままならない。
愛は現象的には脳内の伝達物質やシナプス結合の変化がもたらすものである。特に先のFisherら1)に従えば、脳幹の右腹側被蓋野と尾状核の右後背部のそれらが、愛に伴って変化を起こしやすいのであろう。その変化を自由にコントロールできれば、きっと愛も自由に扱えるに違いない。それは理解しつつも、脳内の伝達物質やシナプス結合を自由にコントロールできる人は間違いなく地球人にはいない。それができればその人は地球人と言うよりも、むしろ特殊な宇宙人になるであろう。もしかすると、BOSSコーヒーの依頼で地球に偵察に来ている宇宙人ジョーンズさんなら、それができるかもしれない2)。しかしながら、現段階で地球人で愛に関する知見を比較的に自由に操れる人は、結局のところ、愛の駆け引きに関して経験豊富な人でもある。所謂、愛の達人である。
幾多の詩人や作詞家、その他の芸術家も愛を主題として挙げ、その愛の本質に迫ろうとした。それでもなお、結局は愛とは何か? の回答は未だに見つからない。愛の駆け引きに正解はなく、そこが愛の面白いところではあるが、その駆け引きは、来るもの拒まず去るもの追わず、されど追いたいなぜ来ない、の原理であろうか。その人類悠久の原理を覆すこともままならず、理性的には納得しつつも、本能的には納得できない。どうしても相手への気持ちの整理がつかないこともしばしばである。
愛の本体は、先にも述べたように目には見えない。しかしながら、他者との関係で目に見えない何らか磁力的な効果も感じられることもある。ただし、それが、互いの磁力なのか、一方的な磁力なのかは個人では判断がつかない。互いの磁力でもって引き寄せられ、それが互いから真として明らかになれば、間違いなく相思相愛の状況といえる。その様な状況であるならば、互いの愛を密に交流することは容易であり、逆に交流しないことは互いの人生にとって大きな損失となる。真に引き寄せ合う状況なら、互いの人生的な意味で言えば、損失はない。互いとは別のところでは損失があったとしてもである。しかしながら、一方的な磁力であれば、社会的には大きな問題にまで発展することもある。これがコントロールできない愛となる。
1) Fisher, HE. Aron, A. Brown, LL: Romantic love: a mammalian brain system for mate choice. Phil Trans R Soc B 361, 2173–2186, 2006.
2) https://ja.wikipedia.org/wiki/BOSSコーヒー (閲覧2015.12.4)