題名:愛憎に縛られる3つの下僕
報告者:ダレナン
愛と憎は人間がもつ根源的な感情でもあり、古えからの様々な物語でも、それらが繰り返し登場することからも分かる。そのことから、人が人らしい知性を身に着けたのは、実は愛と憎があるからでもあろうか。しかしながら、いつまでも、人が存在する限り、永遠に続く愛憎は、果てしない、きりのない、終わりのない物語の誕生でもある。
アメリカの小説家で、劇作家のジョン・スタインベックを研究者である山下光昭氏によれば、スタインベック曰く愛の根源は、シンビオス(共生)にあるという1)。そして、人類が自然との原始的、動物的な関係から、自身を離胎させることで、ヒトは人となり、それ以来、苦悩が続いているという1)。すなわち、言い換えると、シンビオスが充足されれば、愛となり、シンビオスの隔離・分離が続けば、反充足的な側面として憎となる。ゆえに、人にとって愛と憎は表裏一体の物語として捉えることができる。これを山下氏の言葉を借りるとするならば、愛と負の愛として憎があり、それが織りなす混沌とした相対的な世界に人は身を置いている、といえよう1)。
人間的シンビオスの欲望は、人間の最も強い欲求であり、それは大きく3つによって規定される。それが、人間、集団、家族である1)。さらにそれを包括するように社会がある1)。それを図で示す。人間が生まれれば、集団が形成され、集団の形成はやがて家族としてのまとまりを生み、それの総合体が社会となる。一人の人間のみでは、社会が生まれることは決してないものの、一人から二人、二人から三人と増えることによって、集団も家族も、そして社会の規模も大きくなる。
西洋社会的な観点からすれば、二人という人の最小構成のアダムとイブとなる。禁断の果実(善悪の知識の木(知恵の樹)の果実2))を口にしたことによって無垢が失われ、裸を恥ずかしいと感じるようになり局部をイチジクの葉で隠すようになった2)。それらをきっかけとしてアダムとイブは神によって楽園、すなわち、エデンの園から追放され2)、人となり、家族となり、やがて愛憎をも知ることとなる。
図 人間的シンビオスの3つの規定
旧約聖書に基づくカイントアベルの兄弟の愛憎物語から、それに続くジョン・スタインベックによる「エデンの東」のチャールズとアダムの兄弟の愛憎物語の解釈については、山下氏の論文1)を参照していただければと思うが、人と人との間で充足している感情が愛であれば、それが裏返り転化することで憎となる。ゆえに、人間とは、人と人との間でやり取りがなされる愛憎によって規定され(縛られ)、それらは人間だけでなく、集団や家族、そして、それを取り巻く社会をも下僕とする。それは、古えから変わることのない物語でもある。
1) 山下光昭: 「エデンの東」における愛憎. ノートルダム清心女子大学紀要 3: 45-53, 1979.
2) https://ja.wikipedia.org/wiki/禁断の果実 (閲覧2018.6.24)