No.738

題名:死から生への逆再生 -映像のゾンビ化を考える-
報告者:ナンカイン

 通例であれば、今現在は死は尊ぶものであり、そこに映像はあまり関与しない。例えば、ある葬儀において、その故人に対してバシバシと写真撮影をしている、あるいは、その葬儀の模様を一部始終に渡って撮影しているような状況があったならば、その撮影者は間違いなく非難される。その故人が芸能人であれば、報道という安易な目的のもと、それも許されるかもしれない。しかしながら、一個人の故人を偲ぶという状況下では、故人、あるいは、親族への配慮が欠けていると、その行為に対して間違いなく非難される。
 そのような故人に対する想いは、今に始まったことではない。起源を辿れば、5万年以上も前に遡ることが出来る。我々、ホモ・サピエンスの親類ともいえるホモ・ネアンデルターレンシス、所謂ネアンデルタール人は、少なくとも5万年前には入念な埋葬の習慣が存在したことが確かめられている1)。そのネアンデルタール人たちは、故人のために、細心の注意を払って墓穴を掘り、遺体を腐食動物から守っていた行為を行っていたともいわれている1)。そのため、同時代に生きていた我々、ホモ・サピエンスも、故人の埋葬に関する詳しいデータは明確ではないが、同じホモ属として同類の進化の過程から類推すれば、ともに同時期に埋葬に関する類似点は見出せることは間違いないであろう。このことから、少なくとも5万年前から、ホモ・サピエンス、ホモ・ネアンデルターレンシス問わず人類は、故人に対して特別な想いを抱いて、故人を弔った、ことは疑いようがない。すなわち、何らかの故人に対する何らかの配慮ともいえる意識が、当時の人々から働いていたことであろうことは明らかである。それゆえに、現代でも、故人に対する配慮のない行為に対して非難を浴びるのは、その当時からの人類の系譜からであることもおのずと了解できる。
 ここで話を現代に戻すと、今現在ある人が故人となる前から、生前遺書などのビジネスも成り立ち、やがて死ぬであろうことに対する準備として、残された親族や者に対する生前からの、やがての故人からの個人的なアプローチを行うことも少なくはなくなった。ちまたでよく騒がれるようになった断捨離もその一例でもあろう。そこには、その生前であった故人の意図もあり、残された者はその行為に対して、誰もがその故人に対する配慮のない行為であるということは、まずない。ただし、一連のこれらの流れは、現代の映像的な技術では、まだ通例ではない。生前遺書ではなく、これだけ映像技術の発達した現在では、文章だけではなく、映像によって故人の意図も残ることがやがて通例となるかもしれない。時には、死ぬ前から映像を残して、死んだ後も映像を残し、それをうまく逆再生してくれ、さらに、俺は故人ではなく、映像内では永遠にゾンビとして蘇えらせてくれ、と嘆願することもあるかもしれない。すわなち、故人であるが、故人とはならない映像のゾンビ化(ゾンビズム:図)でもある。さらに、生前にその故人の特性を、例えば、AI(人工知能)によってデータ化されていた場合、前述の映像と合わせて、その故人がまるで今も存命しているが如く、映像技術によってうまく再生的に蘇っても不思議はない。やがてそのようなビジネスが成り立つのかは分からないが、故人に対する意識、あるいは、その準備としての意識は、今からの時代で変わりつつあることは何となく実感できる。 

図 ソンビズム2)

1) http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/8645/ (閲覧2018.3.3)
2) https://www.colourbox.com/vector/zombie-text-vector-10749770 (閲覧2018.3.3)

 
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