題名:人を動かすのは理性でなく、感情である
報告者:ダレナン
ここで説明するまでもなく、自明の解答ではあるが、人は人からの影響によって人自身が形成されるも、その形成は理性ではなく、感情による影響が多くを支配している。理性は人が人であることを示しており、感情的になることは、ある意味では人が人でなく、動物的である、と感じさせることにも繋がることは否めない。例えば、会議において感情に任せた説明をしたとしても、それに同意する、できる人は誰もいない。感情では人を説得できることはできない。しかしながら、感情は時として人を納得させることができる。その納得には、もはや理性はなくとも通じる。このことは、まさに報告書のNo.351にも示したように、結局は人は感情的な動物でしかないことをも示している。例え、反論したとしても、進化の過程を覗けば、いかなる動物も理性から生じたのではなく、環境によって与えられるがままに行動を行い、その行動から、その行動を遂行すべくある感情が芽生え、その感情をコントロールするかの如く、理性が芽生えた。そのことは誰も異論することはできないであろう。結局は、人も他の動物と同じくして多くの成長の中で生じた感情を、それを基底とする、ひとつの動物に過ぎない、ことが明らかである。その基底には、やはり理性は含まれない。
一方で、人は他の人の協力なしには生きられない動物でもある。その協力を強力なものとするために、宗教的な概念でもって(報告書のNo.102も参照)、人は他の動物と異なる独自の道を歩み始めた。その宗教的な概念が、やがて概念を超えて宗教となり、昨今のテロなどを代表として対立する様相を呈することをも生じた。その根底には何かを共有する互いの心情がある。ここで問題を複雑にするのが、互いの心情には理性ではなく、感情によって起こり得る現象であることである。少なくとも全てにおいて互いが理性的となれば、互いの違いを共有できる。しかしながら、今の時代の人は、その違いを共有できない状況でもある。人の進化とともにこれが解消されるか否かは、今の時点では何とも言えない。
ここまで記述して、ふと気付いた。筆者は何も難しいことを伝えたいのではない。
人は、あるいは、自分は、あるいは、これを読んでいる人は、自分がどういう時に心が動かされるかを考える。すると、単純に、心を動かされる時は、間違いなくその人から受ける感情が基底となり、その感情の高まりを示すであろう、情熱がこれをブーストしているに過ぎないことが納得できる。このことから、人を動かすのは理性でなく、やはり感情である、との結論に至る。まさに、表題の通りの結論である。
ウォルト・ディズニー氏もこう述べている。
「情熱を持つ1人は、情熱を持たない100人に勝る。」
この言葉の裏にある情熱を持たなかった100人は、理性はどうだったのかは、この言葉からは分からない。しかしながら、情熱は感情の高まりからブーストされ、報告書のNo.351の理性にある論理や感情の三角バランスを示すまでもなく、人は人からの感情で揺さぶられる。その感情の高ぶり(情熱)でもって、人はいつしか心が動かされる。それが感情に伴う直感に繋がる。
よーし、ここまで、Goodして、人の心をつかんだようだ(図)、としたい。
図 Goodして、人の心をつかむ1)
1) https://sozai-good.com/archives/1592 (閲覧2017.6.17)