題名:いしてるの心を知る
報告者:ダレナン
人の関係は、人と人との暗黙の了解でなされるだけではなく、コミュニケーションによって成立する。中にはテレパシー的な能力を有して(報告書のNo.230も参照)、人と人と具体的な会話なくとも以心伝心なる状況も起こり得るかもしれない。しかしながら、どのような状況であろうとも、まったく見ず知らずの人との間にはテレパシーはおろか、通常のコミュニケーションも成り絶たないことがほとんどである。少なくとも、既知であるからこそ、現実や夢において、何らかのコミュニケーション的な要素が両者間に成り立っている。
ここで、その反論として、前世などのことも挙げてみたい。人によっては、前世を覚えている、という人もあるかもしれない。それは、時空間を超えたコミュ二ケーション、所謂両者がまったくもって未知である、と明言して伝えたいこともあるかもしれない。あるいは、覚えていないが、前世的な何かの印象をきっかけによって、現世にその事象がもたらされたであろうという意見も数多くあるであろうか。しかしながら、いずれの状況であっても、前世と現世との明確な関係性がない以上は、それは、結局は、非科学的な現象でしかありえないのが事実となる。言葉も疎かな幼児が、例えば、前世的な何かを発したとしても、そこに、新規の因果関係を見出すことが、事実的に科学的には根拠がない。見方を変えれば、母の胎内であらゆることを学んだことが再燃された可能性も全くは無視できない。このことから、通常の科学的な根拠に基づけば、明らかに立証できない判断は、非科学として位置付けるしか、今は方法がない。
筆者はあくまでも過去からの実証に基づく科学的な検証が最も普通であると信じている。それゆえに、科学的な立場にはいるつもりである。しかしながら、今の科学では十分に証明できない現象も数多くあることも、それは、明らかである。科学はあくまで一事象の一面でしか捉えきれないのも、ゆえに科学的な欠点でもある。
一方、なぜ、子供は未知の事象に憧れを抱くのか、なぜ、大人になると当たり前の事象以外は不思議と心が否定するのか、について常に疑問に感じることも少なくはない。子供は子供なりの疑問を呈し、大人は大人なりの疑問を呈することが、本来の人間として本来は重要なはずである。しかしながら、大人になると、多くの人は経験に基づいて、自分自身が法律であるかの如く、経験に基づいてあらゆることを否定しだす。多分に、多くの社会人の方、特に組織という縛りに括られている方は、この現象について納得していただけるかもしれない。あの課長は…、あの部長は…、「年を取るとともに、頭の柔軟性が失われている」、と反論したい。
それでは、ここまでを踏まえ、この報告書の何が言いたかったのかについて、示したい。「いしてるの心」、と通常では理解のし難い表題は、何を意味しているのかと言えば、
あ
と追記すると簡単に理解できる。簡潔には、あいしているの心である。しかしながらである。どのような人もあいしているの心をコントールすることすらできない。報告書のNo.88で示したように愛の実体すらも、今もって明らかではない。今の科学・技術が如何様に発展しようとも、愛をコントロールできないのは、科学の限界でもあり、筆者の永遠の謎でもある。High HighsのLove Is1)の”Love is all that you need”というフレーズをリフレインしながら、「いしてるの心」の謎を痛切に感じずにはいられない。
1) https://www.youtube.com/watch?v=_YMhX-xhu8M (閲覧2017.3.3)