No.326

題名:あまり難しいことは書かずに、単純に書きたい。が、その極意はどこにあるのか?
報告者:キャらまろ

 近年の技術革新から、どんどんといろいろなことの要求水準が高くなる。それは、仕事にしても、仕事以外の事でも同様である。例えば、先にあった事例に対して同じことをしたとして、それは結局のところマネごとにすぎないと判断され、新たな要求を上層から突きつけられる。しかし、その要求について深く考えると、一定の技術革新の前には、必ず過去のイノベーションがあり、それを変革するべく、さらに過去のイノベーションがあり、結局のところ、元を正せば、はるか遠くの過去の誰かの発案に何かしらの起源があった、ということ否めない、というか、昔の人はよく考えていたのだ、とついぞ確信できる。すなわち、どのような状況であれ、現在の流れは、先人が編み出した歴史の路線に乗っかっていたのだという事実は、現代の、あらゆる物事の本質を辿ると、実はよく理解できたりする。それが、歴史に学ぶということに繋がるのかもしれない。が、これが、「愚者だけが自分の経験から学ぶ」とのことわざの対極にあるのかは未だ理解が及ばない。理解がないにせよ、現在の、あらゆることの礎は、古き時代にすでに考案されていることがほとんどであり、技術により、現代的にそれが進化したと思えども、あらゆることの根本は、古き時代のそれと同じであったりする、とも感じる。言い換えれば、人にまつわる何かの物事の本質は、現代において進化しつつも、人そのものはそれほど進化していなかった、ことがあらゆる場面で見受けられる、のである。変わったのは、結局のところ技術の利便性だけであり、人の本質は、ほとんど進化していない、のであろう。
 いろいろなことを含めて、難しいことを書き並べたとしても、結局のところ、驚くべきことに過去の歴史においてその本質は先人に見抜かれていたりする。すなわち、難しいことを並びたてたとしても、その内容の本質は、先人によりすでに提言され、例えば、

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。

とは、かの将軍、徳川家康の言葉であるが、この言葉に同意しない現代の人はほとんどいないであろう。かの将軍、徳川家康といえどもこのように述べている事実は、いかなる状況であれ、現代人と生きる本質的な状況が変わっていない、ことが明らか、となるのである。そのことは、いかに今の自分が悟った、とかぶりしたとして、人にこうであると悟ろうとも、その言葉には過去の歴史から探ると何も重みはないことが逆に露呈される、のである。その重みの基準は、人の歴史の上で、歴史を変えたという人であれば、その言葉に重みの基準が付加されるかもしれないが、今の自分が

人の一生は重い荷物を背負って、果てしない道を行かねばならない。

と告げたとしても、誰にも何も価値はない。このことから、本報告書ではあまり難しいことは書かずに、単純に書く、と括りたい。ただし、誰しもに明快に分かるように単純に書く極意はない。と、ここまで書いて、読み返すと、何を言いたいのか分かりにくい。まさに単純に書けていないことが判明した。しかし、先人の考えに少しでも近づけよう本質を探れることが、単純に書くための極意かもしれない、と肝に銘じたい。

謝辞:本報告書を書くに際し、Dr.ナンカインの助言を得た。ここに感謝の意を表したい。

 
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