題名:今日のストーリーは、「望美ちゃんの春」
報告者:ダレナン
(No.2986の続き)
あの春、僕と望美ちゃんは同期として同じビルのエレベーターに乗り込んだ。新入社員研修の初日、緊張でぎこちない空気の中、指示されたペアワークで偶然に隣になったのが彼女だった。
「え、同い年なんだ!よかった、なんかホッとした」
笑ったときに目尻が少し下がるその顔が、妙に記憶に残った。
昼休みに一緒に食堂へ行き、資料作成を協力して夜まで残り、そのうち自然と「じゃ、今日もうちでやろうか」という流れになっていた。彼女のアパートはどこか懐かしいにおいがして、僕の部屋にはいつも彼女のヘアオイルの甘い香りが残った。
ある夜、ふとした流れで彼女と身体を重ねた。そんな予感は前からしていたけれど、それはとても静かな出来事で、深夜2時の首都高のように、静かで穏やかで、でもどこか切なかった。
「ねぇ、こういうのって……ちゃんと話したほうがいいのかな」
彼女が言ったその言葉に、僕は何も答えなかった。ただ、朝が来て、また会社で顔を合わせる。それだけで充分だと思っていた。
でも、世界はそんなに都合よくできていない。
実家の父が倒れたという報せが届き、僕はあっけなく退職した。田舎の空気に混じって漂う親の期待、古びたアルバムの中の自分、押しつぶされそうな「戻ってきた」感覚に、望美ちゃんの名前だけが浮き上がっていた。
最初のうちは、LINEも電話も続いていた。けれど、会わなければ、人は簡単に他人になる。返事は短くなり、やがて既読もつかなくなった。
数ヶ月後、共通の同期から届いた飲み会の写真。そこにいた彼女は、柔らかな表情で、隣に立つ上司の鮫島さんの腕を自然につかんでいた。
「鮫島さんと結婚したらしいよ」
それだけの言葉が、今夜の空気を変えた。
テレビの音はつけっぱなし。冷蔵庫の中の缶ビールを取り出して、開ける。プシュという音が、部屋の静けさに滲んでいく。
東京の夜は、変わらない。だけど、あの春の夜に聴いた彼女の寝息も、笑い声も、もうこの街のどこにもないんだ。
窓を開けてみる。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
なんだか、少し寒いな。
No.2986の続きで実話ストーリーに成功しました(笑)。