題名:今日のお題は、「リヨンの午後、そして彼女の眼差し」
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(No.2954の続き)
あの頃、僕はフランスのリヨンに留学していた。写真を学ぶために。古い石造りの街並みと、セーヌとは違うローヌ川の流れが、どこか肌に合っていた。
彼女に出会ったのは、語学学校の掲示板だった。現地在住の日本人の奥さんで、「日本語で話せる友人を探しています」と書かれたメモ。軽い気持ちで連絡を取ったのが、始まりだった。
名前は、直子さん。30代半ばで、柔らかい関西弁を話す女性だった。旦那さんはフランス人で、銀行に勤めていて帰りが遅いという。僕より10歳近く年上だったけれど、不思議と距離は感じなかった。どこかに、同じ「異邦人」としての孤独があったのかもしれない。
最初はカフェで喋るだけだった。僕のつたないフランス語を笑ってくれたり、スーパーのどこの魚がマシかを教えてくれたり。だけどある日、彼女の家に呼ばれた。「たまには和食が恋しいやろ?」と。
その日の夕方、彼女が用意してくれた肉じゃがの匂いと、薄明かりのキッチン。そして…長い沈黙のあとに交わした、ひとつのキス。それが、すべての始まりだった。
毎週金曜の午後、旦那が出張のときや、学校の授業が終わったタイミングで、僕たちは彼女のアパルトマンで会った。互いに「これは一時のもの」と思いながらも、心は次第に深く溶けていった。とくに、彼女がふと見せる「帰れなくなりそうで怖いの」という言葉は、今でも耳に残っている。
別れは、急だった。僕の留学が終わる直前、彼女の旦那が転勤でパリに異動になることが決まり、「もう会わない方がいい」と言われた。
最後に会った日は、特別なことはしなかった。ただ静かに手を繋いで、ベランダから街を見下ろしていた。街灯が灯る頃、彼女がポツリとこう言った。
「もし10年前に出会ってたら、私、全部捨ててたかもしれへん」
帰国後、彼女とは一切連絡を取っていない。でも、あのリヨンの午後の光と、彼女の眼差しは、僕の中に静かに息づいている。