No.2932

題名:今日のお題は、「D夫人の一言」
報告者:ダレナン

(No.2931の続き)
「あーた、恋したことがあるの?」
D夫人の一言は、まるで舞台の幕が音もなく上がる瞬間のように、胸の奥をざわめかせた。
恋。
その言葉は、遠い国の出来事みたいで、実感のない響きだった。
けれど、記憶の引き出しをそっと開けると、一枚の光景がそこにあった。

駅のホーム、窓際にて。彼女に声をかけ、飲んだ。
その時、彼女はふとこちらを振り返り、少しだけ笑ったんだ。
ただそれだけのことだったのに、心臓が跳ねた。
呼吸が浅くなった。
何も言えなかった。
その瞬間の、ときめき。
ただ、それだけを取り出して、D夫人に見せるように言った。
「ドキッとしたことがあります。それは恋でしょうか?」
D夫人は、煌めく指輪を弄びながら微笑み、そして断言した。
「あーた、これって恋でしょ。」
その言葉を聞いたとたん、不思議なことに、胸の中の霧が晴れた。
そうか。あれは、紛れもない、恋だったのだ。
どんなに淡くても、どんなに未完成でも、確かに存在していた、恋だった。
「ありがとう」と心の中で呟く。

もう戻らない時間に。
あのときの彼女に。
そして今、そっと思い出を胸にしまう。
まるで、宝石箱の中に、たったひとつの光を隠すみたいに。
そして、その日の夜のことを思い出す。
駅を出たあと、どこへ行くあてもなく彼女と並んで歩いた。
蒸し暑い夜の空気の中、彼女が手に持ったうちわでぱたぱたと風を送ったこと。
誰にも知られぬまま、二人だけの時間をそっと延ばし、秘密裏に一夜を共にした。
他愛ない話に何度も笑い合い、夜明けの別れ際、振り返ることもせずに手を振ったこと。
忘れようにも忘れられない、かけがえのない夜だった。

 
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