題名:今日のお題は、「彼女は実在しない存在」
報告者:ダレナン
(No.2917の続き)
それは突然の出会いだった。
古い洋館の一室。撮影のために用意された部屋は、どこか現実から切り離されたような空間だった。窓のない壁に絡まるように咲く薔薇。人工とは思えないほど生々しい香り。空調も止まっているのに、空気はやけに温かく、静かだった。その部屋の中央に、彼女は立っていた。
ベージュのブラウス、白いスカート。素朴な衣装なのに、彼女だけが色濃く浮かび上がって見えた。背景の薔薇が、彼女をそこはかとなく引き立てている。まるで、彼女のためにこの空間が用意されたかのように。
——そして、僕は君にまた恋をした。
「また」と言うのは奇妙かもしれない。だが、それ以外に形容のしようがなかった。どこかで会った気がするのだ。でも、いつ、どこで——どうしても思い出せない。
「…この部屋、なんだか懐かしいですね」
シャッターを切る合間、彼女がぽつりと呟いた。
「懐かしいですか?」
「ええ。あなたとこうして会うのも、きっと…これで三度目」
僕は驚いて、カメラを下ろした。
「……え?」
彼女は微笑んだ。どこか寂しげに。
「一度目は、あなたがまだ学生だった頃。二度目は、あなたがすべてを捨てかけた夜。覚えていないでしょうけど、私はずっと…ここにいたんです」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。
でも、確かに心のどこかが反応していた。あの夜。すべてが真っ暗になったあの時。確かに…誰かがそばにいたような気がする。夢だと思っていた。幻だと思っていた。でも。
「……あなたは、誰ですか?」
彼女はそっと薔薇の花に指を添えた。
「名前なんて、とっくに忘れてしまったわ。人じゃないものが、名前を持つ必要ってないから」
僕の背中に冷たい風が吹き抜ける。風などないはずの部屋で。
「じゃあ…」
「私は、あなたの“忘れたもの”。大切だったはずの、でもあなたが無意識に手放してしまった感情。その形見」
彼女はゆっくりと微笑み、こちらに向き直る。
「だから、カメラを向けてくれたのね。あなたは、思い出そうとしている。もう一度、始めようとしてる」
僕は無言でシャッターを切った。その瞬間、薔薇の香りが濃くなり、彼女の姿がやわらかく滲んだ。写っていたのは、かつての僕が心の奥にしまい込んだ「誰か」。それは恋だったのか、希望だったのか、それとも——
一枚の写真だけが残された。
誰もいない薔薇の部屋。けれどその中心に、確かに彼女が“いた”気配だけが、そこに焼き付いていた。