No.2907

題名:今日のお題は、「白の向こうに」
報告者:ダレナン

(No.2906続き)
店の閉店作業を終えたちょうどその時だった。ドアがそっと開き、春の雨のように静かに、彼女は現れた。
年の頃は二十代後半だろうか。飾り気のない黒いワンピースと、濡れた髪。まるで誰かの記憶から抜け出してきたような、そんな佇まいだった。
「私の裸の写真を撮ってほしいんです」と、彼女は言った。
突然の言葉に戸惑いながらも、僕は表情を変えずに彼女を見つめた。確かに、そういった依頼は過去にも何度かあった。でも、彼女にはそれとは違う、言い知れぬ“影”があった。重く、静かで、どこか悲しい影。
「どういったイメージで撮りたいのですか?」
そう訊くと、彼女は少しだけ目を伏せてから、こう答えた。
「今の私の全てを、包み隠さずに撮ってほしいんです。嘘のない、私そのままを」
その言葉の重みに、僕は一瞬ためらった。だが、写真家としての本能が、彼女の中に“何か”を感じ取っていた。それをフィルムに焼きつけておくべきだと、どこかで思ってしまった。
あまりに露骨なものにはしたくなかったので、白い布切れを提案した。彼女は、少し微笑んで「いいですね」とだけ言った。
スタジオに薄い光を落とし、シャッターを切る。
そのたびに、彼女の中から何かが剥がれ落ちていくようだった。
一枚、また一枚と、彼女の輪郭が変わっていく。最初は戸惑いが混じったような目だったのに、徐々に透明な光を帯びてきた。その瞳には、言葉では語り尽くせない深淵が宿っていた。

「あなたなら、どうしようもない悲しみを理解できますか?」
突然、撮影の合間に彼女がぽつりと呟いた。
僕には答えられなかった。
ただシャッターを切った。
まるでその瞬間だけ、時間が彼女のために止まっていたようだった。
撮影が終わる頃、彼女は布切れをそっと外し、こう言った。
「ありがとうございました。これで、ようやく終わりにできるかもしれません」
「終わりに?」
「ええ。さよならを告げるために、私をちゃんと写してもらいたかったんです」
彼女はそう言って、まるで闇に溶け込むように、静かに帰っていった。
後日、彼女の姿をもう一度見たくて何度も街を歩いたが、一度も姿を見たことがない。
ただ、現像した写真の中の彼女だけが、今でも静かにこちらを感じている。
布切れの向こうの、その深い瞳で。

 
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