No.2906

題名:今日のお題は、「窓辺のひと」
報告者:ダレナン

(No.2905の続き)
あれは、僕が美術系の大学に入ってまもない頃だった。
浪人していた僕は、同級生たちよりも少しだけ年上で、どこか気後れしながら、大学生活のスタートを切っていた。

春の風がまだ肌寒いある日、僕は何気なく演劇サークルの扉を開けた。たまたまその日、キャンパスの掲示板で目にしたポスターが、どこか気になっていたからだ。興味というよりは、何かに引き寄せられたような感覚だった。

その扉を開けた瞬間の光景を、僕は今でも鮮明に覚えている。
古びた教室の窓辺に、一人の女性が立っていた。
逆光の中で、彼女の髪が柔らかく光を受けて、ふわりと揺れていた。

僕の中で、何かがざわめいた。
ああ、この人を知っている──そんなはずはないのに、そんな感覚にとらわれた。
運命の人なんて信じたことはなかったけれど、そのときだけは、なぜかそう思えた。

「こんにちわ」
思わず声が出た。少しだけ声が裏返っていた気がする。

彼女はゆっくりと振り返って、少し驚いたような顔をしたあと、やわらかく笑って「こんにちわ」と返してくれた。

その後、僕たちがどんなふうに話をしたのかは、正直覚えていない。
たぶん自己紹介とか、サークルの説明とか、そんな他愛もない話だったと思う。
でも、彼女の声の響きと、笑うときに少し目尻が下がるのを、僕はちゃんと覚えている。

気づけば、僕はそのまま演劇サークルに入部していた。
演劇経験なんて一度もなかったし、人前に立つのも苦手だったのに。
だけど、そんなことはどうでもよかった。

それは、恋というにはまだ遠くて、
でも、ただの興味以上のものが確かに心の中で芽生えていた。

あの日、窓辺で出会った彼女。
春の光に包まれた、その横顔が、僕の新しい日々の始まりだった。

今日のお題は、「窓辺のひと」

 
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