題名:実体のない実体
報告者:ダレナン
今日は西暦2016年3月31日である。報告書の日付けにはそのように記載してある。しかしながら、今日が西暦2016年の3月の31日であると、証明した人は誰もいない。そこに、今日が本当に、西暦2016年3月31日であるかは、信用性がない。慣習として、通例として、今日という日付けが存在しているだけである。同じように、この報告書を読み、そこに、報告書を読んでいるという意識があっても、その意識は誰も証明していない。自分が読んでいるという意識があるだけである。もし、隣に人がいるなら、尋ねてみてもいいかもしれない。「この報告書、読んでみてください」と。しかしながら、読んだとしても、その読んでいる人は、隣の人であって、自分ではない。自分が読んだとしても、それは自分が読んでいるのであって、隣の人でない。すなわち、どのように読もうとも、読んでいるのは自分の意識であり、他人ではない。すると、その読んでいるといるという意識は、どこから来るのかと自問自答すると、結局は自分である、となる。この流れを繰り返したとしても、自分以上、誰もこの報告書を読んでいない、ということが分かる。
さて、ここで、自分の意識を転換し、読むことをやめたとする。すると、報告書は存在していないことになる。読んでいないから、報告書が存在していないと見なすことになるが、報告書自体はここにある。ここにある意識を、ないとして見たとしても、そこには報告書があり、それを読んでいる自分が存在する。しかし、である。読んでいないから、あるいは、読んだからといって、報告書を確認できたか、否かは、その人の意識にかかっている。意識があるからこそ、読んだ、読まないとなる。すなわち、自分の意識が、報告書や自分を実体化していることに他ならない。
仮に意識がないとしよう。すると、その次は、報告書があっても、なくても、どちらでもない存在が、この報告書であり、その意識が登らないことが自分となる。どうあがいたところで、自分の意識がない以上、そこにあるのは無ではなく、実体のない実体である。
自分という実体は、どこにその実体があるのか?
自分の意識が、実体を実体化しているように見せかけているだけなのか?
その意識は、本当に実体化されているのか?
ここで、隣の人を意識する。隣に人がいなければ、思いつく人を意識する。すると、自分の意識は、その意識によってどのように実体化されるであろうか。丸い、四角い、三角い、いずれの形状であっても、意識した実体は、自分の意識がもらした結果であり、目の前には現れない。
意識は厄介である。どのように意識しようとも、実体化しようと試みても、実体のない実体であることは、誰もが理解できる。実体がない実体であるのに、意識という実体は、実体化しているように見せかけ、実体化しているように理解させる。望まない意識も、望む意識も、同じように実体化しているように思えども、その実体化は実体にしてあらず、である。さらに、実体のない神曰く、
あなたの意識は、今このような形状をしています。