題名:いまの、あたしの気持ち、わかるの?
報告者:ダレナン
本報告書は、基本的にNo.1288の続きであることを、ここで前もってことわりたい。
正直に告白せなばなるまい。テキトーに考えた波打ち際.com(No.1288)が個人的なこころもちの仕様で、なぜか、サイトとしてドメインが登録された。それは、自己の仕業でない。神様のいたずらだとしたい。でも、だめだ、だめだ、と思いつつも、そのサイトへの執着から、神様のいたずらによって、.comへと本当に生まれ変わる。その行為は、あきれるばかりの単純さ、短絡的な思考の仕業でもある。神様のいたずらとすることによって、自らをなだめているのかもしれないが、神様にとってもよい迷惑でもある。
しかしながら、やがて、その.comは、いずれなくなるかもしれない。なくなるようにしないといけないのかもしれない。こういう時にこそ、自らの欲求心が疑われる。とめどなく起こる欲求心は、まるで足るを知ることなく、膨らみ続ける。その一方で、まぁ、いいか、との思いで、.comの想い出に浸る。その浸った想い出には、もはや発酵自体は、これ以上は不可能かと思えるばかりに、周囲に臭いを放つ。塩漬けニシンのそれと同じく、保存的に、食べることは可能であっても、周囲に異様なほどの臭いを放つ。ただし、人にとっては、それは匂いとなる。言い換えれば、かぐわしいまでの芳香なのだ。求めていなくとも、その芳香に誘われ、咆哮するのだ。自らが「それが、欲しいと」。
その欲しいという気持ちは、愛とも通じるのであろうか。その偏っているかもしれない愛から、一応、酷評とされていた海猫(監督は森田芳光)の映画は、先の報告書から引き続き、観ました、とここで伝えたい。酷評ではあるが、わるい映画ではなかったかと思う。同時に進行して、谷村志穂さんによる海猫も読んでいる。小説は、途中まではありつつも、なかなかそのエッセンスは、映画の中でも活かされていたように感じる。ただし、やはり、海猫は上・下と渡って渾身の力作でもある小説であるゆえに、その小説の海猫を、完全に映画海猫の中に収めるのは、困難であろうことも明らかである。
調べると、少なくとも、この小説を記述した谷村志穂さんには、大きな人生の転換期が訪れている1)。谷村さんとしても、これは、間違いなく特別な作品であるに違いない。ゆえに、映画という媒体でもって、これをすべて表現することは難しい。ただし、最大限の努力は、映画にも見て取れる。そこは評したい。
その一方で、媒体による表現の難しさが指摘される。少なくとも小説の読みには時間がかかり、主人公、および、その他の登場人物の心理背景を詳細に理解するには、記述した小説家のバックボーンをもおのずと理解しなければならない。そこが醍醐味であったりもする。その一方で、映画であれば、そこに起こっている何かを、映像的に解釈でき、よくもわるくも短絡的にその情景を把握できる。すなわち、観る側に、バックボーンを小説ほど必要とせず、場合によっては、監督、脚本が誰かであるとも知らず、映像からのイメージが受動的に与えられる。そうして、その結果が、よい、わるい、と判定される。つまるところ、「いまの、あたしの気持ち、わかるの?(図)」と問われても、その映像だけでは本心が分からない。「あたしは…」として文章だとよく分かる。
図 あたし2)
1) https://mi-mollet.com/articles/-/10585 (閲覧2019.6.15)
2) https://www.pinterest.jp/pin/737745982689749622/ (閲覧2019.6.15)