題名:絵スぺ欄、という希望さ (ex. エスペランサ)
報告者:ダレナン
本報告書は、基本的にNo.1256の続きであることを、ここで前もってことわりたい。
迷路のように入り組んだその入口は、明朗会計と唄いつつも、出口ではぼったくられる。そうして、後に残されるのは、からっぽの財布だけである。しかしながら、電子マネーと化した現在では、財布なしでもやってゆけるのかもしれない。その時は、クレジットの引き落としを見て、びっくりするのだ。「げっ」と。そこで、Always NeverのKnow Thisとして、「これ、知ってる」みたいな感じで、途中の歌詞が「いぇ、湯飲み、いぇ、湯飲み」と聞こえるのと同じ現象のように、まるで、「湯飲み?」のように、お茶を濁すしかない。ただ、そのYoutube1)で示されたMelissa Cartagena氏のInstagramの画像2)は、限りなくR18であり、またも、びっくりするのだ。その時代の変化に対して。
迷路から次々と繰り出されるそのお化け的な要素をパクパクと食べると、パックマンとなる。しかしながら、そのパックマンもR18(令和18年)になると、ゲームとしてのその地位が輝いているのであろうか。あまりにも進歩しすぎた世界は、あらゆることが明朗となり、もはやぼったくり的なごまかしは通用しない。能力ある者だけが生き残るバイオハザードの世界だ。シューティングがうまくないとやってはいけないだろう。しかしながら、このシューティング的要素を持った次々と繰り出されるイミフー(No.1256)は、バリフーとなって、湯飲みをフーフーする。そして、気づくことがある。湯飲みには、取っ手がない、ということに。ということは、あまりにも熱い、熱すぎる飲み物は、湯飲みに似合わないということになるのかもしれない。すなわち、その湯飲みの造形は、キュビズムやシュルレアリスムと同じような怒涛の新たな芸術運動とも言い換えることができるのかもしれない。コップと決定的に違うのは、穴があるのか、穴がないのかというトーラスへと結びつく。いわば、湯飲みは、球なのである。
ここで、一端迷路から飛び出る。あまりにも迷いすぎると、出口と入口の区別がつかなくなり、最悪の状況では、出口も入口も見つからない、文章の迷宮へといざなわれることにもつながる。ただし、その時、その時に限って、エンジェルが出現する。自撮りするエンジェルにはきっと羽根がある(図)。でも、よく見るとその羽根は壁に描かれているのかもしれない。不思議とマッチするその姿は、絵スぺ欄、という希望さ (ex. エスペランサ)へも導かれ、再び、精度の高いミス変換として、その内容を無い様として問われる。
図 希望ちゃん3)
そう、彼女はきっとスマホだけでなく、希望も持っている。
1) https://www.youtube.com/watch?v=rRYQbMij5-8 (閲覧2019.6.2)
2) https://www.instagram.com/perazna/ (閲覧2019.6.2)
3) https://www.pinterest.jp/pin/737745982689460135/ (閲覧2019.6.2)