題名:手を挙げない回数と「没個性」との関係
報告者:ナンカイン
幼稚園、あるいは保育園(保育所)を卒園し、小学校に入学し、中学校までの義務教育を経て、高等学校に入学する。その後、大学へと進む。あるいは短期大学、専門学校へと進む。大学や短期大学、または専門学校を卒業すると、ある会社に入社する。高等学校や大学などは義務教育ではないため、中学校を卒業してすぐに仕事を始める方、高等学校を卒業してすぐに仕事を始める方もいるであろう。しかしながら、多かれ少なかれ、小→中→高→大と進む道を歩む方も、少なくはない。統計でも、日本の大学への進学率は、2009年を境に50%を超え1)、日本の高等学校卒業者の約半数以上の人は大学へ進学していることとなる。諸外国の推移からすると、日本の約50%は現状では、まだ進学率が少ないようであるが、政府の意見としては、とりあえず大学に入学させ、日本の教育水準を上げろ、という声もその裏に聞こえないではない。ただし、大学へ入学したからといって教育水準が上がるかは別問題である。教育水準を挙げるには、明らかに個人の自主性が第一である。自主的に勉強する人であれば、大学へ行かずとも教育水準は挙がる。ここで、本報告書を読む方の、各学校時代における自己の自主性について考えて頂けると、この後の話がスムーズになる。それを考える取っ掛かりとして、簡単に、手を挙げた回数について、考えてもらえるとありがたい。
例えば、幼稚園や保育園の時代、あるいは小学校の時代について、戻ってみよう。その時代のある先生が、ある問題について質問し、手を挙げさせたきっかけを与えた。その時代のあなたは、どうであったろうか。特にそのある問題について明確に分からなくとも、手を挙げていたような感があるはずである。すなわち、分からなくとも、「はい、はい」と簡単に手を挙げていた、という記憶がおぼろげにあるであろう。それは、分からないということが、決して恥ずかしくなかったためであり、手を挙げるという行為が楽しかったためでもある。これが、中学校、高等学校、大学と進学するにつれ、そのある問題の解が間違えているかもしれない、あるいは、手を挙げる行為自体が恥ずかしいという気持ちから、手を挙げることが随分と少なくなったはずである。人によっては、年とともに手を挙げたことが、限りなく0になった人も多いに違いない。すなわち、日本では他者に咎められることや他者と異なる行為を恥と見なし、その恥を重んじる民族性から、手を挙げることが「おかしい」と次第に自己認識されたためでもある。所謂、日本人の「没個性」化である。
一方、学校を卒業し、社会に出ると求められることは、これとは逆の「個性」を出せである。小・中・高・大学と進学するにつれ、「没個性」に精進したにも関わらず、社会に出ると急に「個性」、手を挙げろとなる。すなわち、自分を自己主張しろ、となる。なかなか、難儀な話である。日本に住む方なら、多かれ少なかれこの状況を目の当たりにしているであろう。よく周りを見渡すと、「没個性」とならずに、手を挙げ続けた人が、社会のあらゆる方向で情勢を牽引していたことに、ふと気づく。すなわち、「個性」のあった人が、結局は社会では活躍している。これは教育水準とは別の、自己の自主性に他ならない。やはり、社会的に手を挙げ続けるために必要なのは、筋力ではなく、気力となる(図)。
図 手を挙げ続ける筋力と気力
1) 文部科学省: 学校基本調査. 2014.