No.1302

題名:1/3のLOVE
報告者:ダレナン

 本報告書は、基本的にNo.1301の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 ここにきて、ここにきてまさしくようやくであるが、ひとつのけつろんをえた。それは、ひらがなは、かたかなではなく、ひらがなというけいたいであり、なぜかへんかんしないままで、ここにきじゅつすると、すべてがひらがなとなっていることで、これが、いがいとよみにくいことがはんめいする。すなわち、あるていどのかんじをともなわなければ、おもったいじょうにわかりにくい。あは~ん。うふ~ん。といったひらがなは、ひらがなとしてめいりょうなわかりやすさをおびているが、ひらがなじたいがつらなるとよみにくいのである。くとうてんをつけることでたしょうのよみやさがでるがくとうてんをつけないとほんとうにわかりにくくこのいちぶんがまさにそうである。そこで、ここら辺で戻さねばなるまいと思えた。その思いは、漢字はまとまった意味として、その読みやすさを提供しているのだと。そうして、その場、その場で、見事に漢字を使うことによって、格段に読みやすさが変わる。思った以上に、漢字とは、意味がある。ひらがな自体は、たぶん、きっと、日本独自の発明だとしても、漢字がないことには、読みやすさが相当に異なる。意外と、不思議。不思議に思ったのだ。漢字の効用に。
 そうして、無地かしこい風に考えると(No.1301)、考えたくはないが、なぜなら、パープリンであるからして、そうであるが、ここで、こうなのだよ、と、のたまいたい。「じぶん、めっちゃ、あほやん」と。そうして、何を言いたいのか分からなくなり、本日、めでたく、まず先に浮かんだ表題を見直して、「そうそう、1/3のLOVE」だったと思い出す。ひらがな、カタカナ、そして、漢字との3つで表現する言語は、3つも覚えないと、正確な言語化ができない。それは、どんなに、どんなに、どんなに、LOVEを感じようとも、逢って、触れて、過ごして、という3つの段階を経ていないLOVEは、本当はものにはならない、ことと同じ意味。次々と、繰り出される、繰り出したつもりの恋作においても、3段階を経ていない状況は、読み直すと真の言語化できていない。すなわち、そこに、頭の中に、実在として、その3つが、インプットされていないことから、己自身が「ばかじゃねーの」と、時折、結局は、冷静になってしまうのだ。でも、あれだよなー、この人、きっとあの人だよなー、と分かりつつも(図)、現実的に、買い物している人にこんな人はいない。いても、言語化できない。「ハイカラなあなたに、めちゃめちゃ、ときめきました」と買い物中に言

図 たぶんあの人1)

おうものなら、この人は…となる。だからこそ、きっと、ときめいても、ただの1/3のLOVEでしかない。「うわぁ、めっちゃ、すてきなひと」としても、1/3のLOVEに留まり、やがて記憶から失われる。その時のときめきはカートにしまったまま。それはどうなの、と寂しくもあり、なんだか今日もときめきたい。そのときめきの買い物は、1/3であっても自分の存在の証明であるかのごとき、魂の揺さぶりなのだ。

1) https://www.pinterest.jp/pin/584271751638159036/ (閲覧2019.6.24)

 
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