No.1040

題名:金と愛、そして、信仰と欲望
報告者:ナンカイン

 本報告書は、基本的にNo.1034の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 報告書のNo.1039などを介して、これまで、お金と愛と、愛とお金にまつわる考察を、映画「熟れた本能」での見識も交えながら実施した。そして、ここで、再び、報告書のNo.1034に立ち返り、報告書のNo.1038で提示した信仰との対象にあるのが欲望ではないか、との仮定の下に、報告書のNo.1034を新たにブラッシュアップし、以後の内容につなげたい。ただし、愛は一文字であり、お金は二文字であることから、愛と対等な立場としてお金を一文字にすべく、金、と表記しなおしたことを前もってことわりたい。
 金、愛、信仰、欲望をそれまでの考察を含めて捉えなおすと、図のような関係があるかもしれない。ただし、金と愛は、実際は具体的な”物”のない、精神概念的な”もの”としての扱いとなることから、それ自体はアクションを起こさないし、起こせない。しかしながら、アクションを起こすのは、あくまでも人の心理的な”もの”として位置づけられる「刺激」となる。そのため、信仰と欲望は、その「刺激」を横断するようにトリガーとして機能する。そのトリガーの機能の仕方が、金よりのこともあれば、愛よりのこともある。「刺激」トリガーのかけ方一つで、信仰と欲望は大きく変動する。
 ここで、報告書のNo.1035で仮称したシンコーる(こころの装飾(interior of heart)を彩りつつ、かつ、色めかせる、纏わり)に関して、信仰だけではなく、欲望にも存在する(実際はnorシンコーるであるが、シンコーるに含まれると仮定する)とすると、欲望としてのシンコーるともなる金と愛の存在が産まれる(纏わる)。それが、愛であれば、No.1038でも示した「終わりなき愛の欲望」に繋がり、金であれば、精

図 金と愛、そして、信仰と欲望の連携

神概念的な”もの”であっても、No.1034で示した「お金が欲する、愛、ではなく、信仰(norシンコーるとして、欲望)」、に相当する。
 ここで、ギュスターヴ・フローベルの「ボヴァリー夫人」に関して、その小説技法から捉えなおすと、文献1)に示してあるように、社会性、歴史性を極力排除しつつ、狭い共同体内部における個人の心理、諸個人の関係を軸として構成されている。そして、その心理、軸は、実は、図に示す金、愛、信仰、欲望によって大きく結びついている。

1) 野村正人: 「ボヴァリー夫人」における小説技法の一考察. フランス語フランス文学研究 53: 36-44, 1988.

 
pdfをダウンロードする


地底たる謎の研究室のサイトでも、テキスト版をご確認いただけます。ここをクリックすると記事の題名でサイト内を容易に検索できます。



...その他の研究報告書もどうぞ