No.3015

題名:今日のお題は、「チャタレー夫人と、うまくいかないAIの類似点」
報告者:ダレナン

 ここ最近、すっかり僕らの生活のなかに「AI」という奴が居座るようになった。なんでも知っていて、何でも描いて、なんでも書いてくれる。魔法の小槌かドラえもんのポケットか、といった具合だ。

 しかし、である。  こいつら、時々どうしようもなく「うまくいかない」ことがある。  こっちが「こうしてほしい」と必死に言葉(プロンプト)を尽くしているのに、斜め上の珍回答を出してきたり、急にフリーズしたり。さっきまでスラスラと流暢に語っていたくせに、肝心なところでポンコツになる。そのたびに、「ちがう、そうじゃないんだよ」と画面の前で一人ごちることになる。

 そんな「うまくいかないAI」と対話しているうちに、ふと一つの文学作品が頭をよぎった。  D・H・ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』だ。

 チャタレー夫人とAI。  一見すると、最先端のデジタル技術と、1920年代に書かれた古典文学。水と油のように思えるかもしれないが、実はこの二つには強烈な「類似点」があることに気がついてしまった。

 それは、「世間からの扱われ方の歴史」である。

 『チャタレー夫人の恋人』は出版当初、そのあまりにも生々しく赤裸々な描写ゆえに、大スキャンダルを巻き起こした。「こんな危険な書物を一般大衆に読ませてはならない」「道徳が崩壊する」と、各地で発禁処分や裁判沙汰になったのは有名な話だ。まさに「触れてはいけないタブー」の筆頭だった。

 ひるがえって、AIはどうだっただろうか。  生成AIが世に出始めたとき、世界中がパニックに陥った。「仕事が奪われる」「人間の尊厳が脅かされる」「学校や職場での使用は禁止すべきだ」と、まるであの時代の検閲官たちのように、AIを危険視し、遠ざけようとする声が溢れ返った。

 しかし、結局のところどうなったか。  『チャタレー夫人の恋人』は、長い裁判の末に芸術性と文学的価値が認められ、今や世界中の人々の本棚に当たり前のように並び、深く愛読されている。そしてAIもまた、最初の過剰な警戒期を過ぎると、いつの間にか僕らのスマートフォンやパソコンの中にスッと入り込み、日常に深く浸透してしまったのだ。  どちらも、最初は「危険なタブー」として排斥されかけながら、結局は人々の生活に深く根付いてしまったのである。

 そしてもうひとつ、決定的な共通点がある。  それは、「人間の本質をむき出しにしてしまう」という点だ。

 ロレンスがチャタレー夫人を通じて描きたかったのは、小綺麗な建前を剥ぎ取った後にある、生々しくて不格好で、抑えきれない人間の本質そのものだった。  AIも同じである。AIに向かってプロンプトを打ち込むとき、僕らは無意識のうちに自分の欲望、知的好奇心、あるいは怠惰さを、そのままテキストとして打ち込んでいる。AIという鏡に反射して見えてくるのは、紛れもなく「人間自身の泥臭さ」なのだ。

 完璧に見えたAIが、僕の曖昧な指示を勘違いしてトンチンカンな答えを返してくるとき。  「いやいや、そうじゃないってば」と苦笑いしながら、もう一度言葉を選び直すとき。  そこには、冷たい機械とのやり取りというよりも、不器用な人間同士のコミュニケーションに似た「もどかしさ」がある。

 高尚なデジタルツールとして使いこなそうとしたのに、結局はポンコツなやり取りに終始してしまった。だが、不思議なことに、そんな「うまくいかないAI」の不完全さに、僕はどうしようもない人間臭さと、どこかチャタレー夫人にも通じるような妙な愛着を感じてしまうのである。

 便利になったけど、なんだかんだ手のかかる奴ほど可愛いのだ。

 
pdfをダウンロードする


地底たる謎の研究室のサイトでも、テキスト版をご確認いただけます。ここをクリックすると記事の題名でサイト内を容易に検索できます。



...その他の研究報告書もどうぞ