題名:お金と情報
報告者:ナンカイン
お金のそもそもの起源は、何かと問うと、それが存在する前にはまずモノの存在があった(ここでのカタカナによるモノとは、そのモノに実在があることを示す)。少なくとも大昔、それも人がお金とは何であるかが分からない時代は、モノなしに何も生み出すことができなかった。モノがあることで、人の生活が成り立つ時代において、モノがある事実は、生活上で大きな価値があった。そのモノがなければ、生活ができないとあれば、そのモノの価値は一層高かったであろう。逆に言えば、生活で役に立たないモノであれば、価値がなかったということに等しい。しかしながら、モノがない状況でも、あるモノがどうしても生活上必要となれば、ブツブツ交換がお金の前に先立つ。すなわち、あるモノとあるモノの価値基準が同じであれば、ブツとブツを交換することでモノを得られる。ただし、ブツブツ交換も交換する互いの基準が異なればそれは成し得ない。その基準を一定にすることの解決として、お金という別の付加価値が生じる。お金であれば、ブツの価値とお金の価値の基準が一致し、互いの価値基準を交換できる。ブツカネ交換である。そのお金の価値については、大昔ではなくとも現代の視点で調べると、実は現代のお金のサイズ等にも容易に見てとれる。図は日本の硬貨のサイズ等の変化である。データーはWikipedia1)に基づいた。
直径(mm) 厚さ(mm) 重量(g)
図 日本の貨幣におけるサイズ等の変化
これを見れば明らかだが、硬貨の価値が高いほどサイズ等の変化が大きくなる傾向があることが分かる。すなわち、紙幣は別として、お金、ここでは硬貨の価値基準をサイズ等の変化で見ると、容易にそこにお金の価値観があることが分かる。一方、情報などのもの(ひらがなのものとは、実在しないモノ以上の精神性も含める)には、モノではない価値観が見られる。人類の文化継承には、実はこのものの伝達の価値観が非常に意味があった。アルゼンチンのサンタ・クルス州にあるラス・マノス洞窟2)の手の跡を見ると、これは成人として認められた通過儀礼の跡とされており、通過儀礼という情報が部族内に共有された痕跡でもある。この手の跡をつけるに際し、部族の長たる人物がお金を欲したかどうかは分からないが、この手の跡にお金以上の価値観があったことはその当時の時代背景からも明らかである。この時代では、お金はただのモノではあるが、ものでなかったはずである。現代でも、情報ははたしてモノなのか、ものなのか、これは考え方次第で変わるであろうが、人類が情報をモノでなく、ものとして見なすことができれば、情報の価値観もお金以上のものに変わるであろう。情報は決してモノではない。ものであると思いたい。情報は人類にとって共有のもの(財産)である。
1) https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の硬貨 (閲覧2015.9.26)
2) https://ja.wikipedia.org/wiki/クエバ・デ・ラス・マノス (閲覧2015.9.26)