No.2987

題名:今日のストーリーは、「望美ちゃんの春」
報告者:ダレナン

(No.2986の続き)
あの春、僕と望美ちゃんは同期として同じビルのエレベーターに乗り込んだ。新入社員研修の初日、緊張でぎこちない空気の中、指示されたペアワークで偶然に隣になったのが彼女だった。
「え、同い年なんだ!よかった、なんかホッとした」
笑ったときに目尻が少し下がるその顔が、妙に記憶に残った。
昼休みに一緒に食堂へ行き、資料作成を協力して夜まで残り、そのうち自然と「じゃ、今日もうちでやろうか」という流れになっていた。彼女のアパートはどこか懐かしいにおいがして、僕の部屋にはいつも彼女のヘアオイルの甘い香りが残った。

ある夜、ふとした流れで彼女と身体を重ねた。そんな予感は前からしていたけれど、それはとても静かな出来事で、深夜2時の首都高のように、静かで穏やかで、でもどこか切なかった。
「ねぇ、こういうのって……ちゃんと話したほうがいいのかな」
彼女が言ったその言葉に、僕は何も答えなかった。ただ、朝が来て、また会社で顔を合わせる。それだけで充分だと思っていた。

でも、世界はそんなに都合よくできていない。
実家の父が倒れたという報せが届き、僕はあっけなく退職した。田舎の空気に混じって漂う親の期待、古びたアルバムの中の自分、押しつぶされそうな「戻ってきた」感覚に、望美ちゃんの名前だけが浮き上がっていた。
最初のうちは、LINEも電話も続いていた。けれど、会わなければ、人は簡単に他人になる。返事は短くなり、やがて既読もつかなくなった。
数ヶ月後、共通の同期から届いた飲み会の写真。そこにいた彼女は、柔らかな表情で、隣に立つ上司の鮫島さんの腕を自然につかんでいた。
「鮫島さんと結婚したらしいよ」
それだけの言葉が、今夜の空気を変えた。

テレビの音はつけっぱなし。冷蔵庫の中の缶ビールを取り出して、開ける。プシュという音が、部屋の静けさに滲んでいく。
東京の夜は、変わらない。だけど、あの春の夜に聴いた彼女の寝息も、笑い声も、もうこの街のどこにもないんだ。
窓を開けてみる。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
なんだか、少し寒いな。

No.2986の続きで実話ストーリーに成功しました(笑)。

 
pdfをダウンロードする


地底たる謎の研究室のサイトでも、テキスト版をご確認いただけます。ここをクリックすると記事の題名でサイト内を容易に検索できます。



...その他の研究報告書もどうぞ