No.2659

題名:今日のお題は、「思い出の森で」
報告者:ダレナン

(No.2658の続き)
 あの日、京都の森は静かに息をしていた。湿った土の香りと、風に揺れる木々の葉音が耳に優しく届く。秋の始まりの空は穏やかで、差し込む日差しが金色の斑点を地面に描いていた。
 彼女はその日、旅館から借りた着物を身にまとっていた。藍色と桃花の模様が淡い光の中で鮮やかに映え、帯の結び目が後ろ姿をさらに優美に見せていた。普段の彼女の姿とは違うその風情に、僕は少しだけ驚きながらも心を奪われた。手にしたカメラのファインダー越しに彼女を捉えながら、どこか違う時間の中にいるような感覚に包まれていた。
 「撮るよ」と声をかけると、彼女は少しだけ振り返り、控えめな笑みを浮かべた。その一瞬の表情は、何にも代えがたい美しさを持っていた。85mmのレンズで切り取られた彼女の姿は、僕の記憶に深く刻み込まれた。シャッター音が森の静寂に溶けるたびに、僕たちの時間が少しずつ形になっていくような気がした。

 フィルムに収めたその写真は、いつしか僕の大切な宝物となった。現像された彼女の姿を見るたび、あの日の穏やかな空気や、彼女の柔らかな声、そして二人で歩いた小道の感触が、鮮やかに蘇ってくる。

 あの旅から数年後、僕たちは夫婦となった。今もその写真は、僕のデスクの片隅に置かれている。ふとした時に目にすると、心の奥にしまい込んだ感情が静かに波打つ。あの森で切り取った瞬間は、僕たちが確かに「同じ未来を歩んでいこう」と心に決めた始まりだったのかもしれない。
 年を重ねるごとに、思い出は少しずつ霞んでいく。でも、その写真は当時の光や匂い、そして彼女の柔らかな笑顔を、いつまでも鮮明に映し続けてくれる。時を超えた宝物として、僕の心をいつまでも感傷的に震わせる。
 そして今も思う。あの森で彼女を撮影した瞬間こそ、僕の人生で最も美しい一瞬のひとつだった、と。

今日のお題は、「思い出の森で」

 
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